自伝

高校時代

麻布学園は進学校だった為、一般の公立高校よりも早く始める科目があり、当然私は、古文であるとか数・であるとか、大学受験に欠かせない科目に遅れを取ってしまっていた。 仕方が無いので、その時から大学は、数学と古文の無い慶応の法科と勝手にに決めてしまったのである。 中学三年から三科目しか勉強しないのは実に楽である。 以来私は担任の覚えめでたく無く、高校進学してそろそろ進路を決めなくてはいけない時期に差し掛かると、母は父兄会の度に担任に呼び出され説教をされるはめに陥ったのである。 息子を中二から中三へ捻り込む事位朝飯前の母にとって、高校の教師の説教等応えない、「息子は慶応に行くと決めてますから」と担任に言って呉れたのは良いのだが、それ以来プライドを傷付けられた、その東大出の担任は、事ある毎に辛く当って来たのである。 遠足に行けば、煙草を吸った事を告白した人間が、私の名前を出したと反省文を書かせ、 私も負けちゃいないので、それを全部利き手でなかった右手で書いて応戦したりしていたのである。所謂、教育者の弱味を突いた順法闘争だ。 お陰で、その時以来私は両手が使える様になったのである。

勿論悪いのは全て私である。 反抗的で、数学の授業中は解らないので、眠っている。 物理の実験の感想には。「無味乾燥」と一言だけ。 倫理に至っては、からきし解らないので映画のプログラムを読んでいて、教師が出席簿を教壇に叩き付けて始めて気が付くという態である。 一度は、地学の時間に教師が、「今日は綺麗な写真を見せてやる」と言って、お世辞にも綺麗とは言えない、何かの本に綴じ込んである、それも白黒の地層の写真を見せて呉れた事があって、私は思わず吹き出して「綺麗だなあ」と叫んでしまったのである。 その年輩の教師は、すごく怒って私の首筋を掴み「何が綺麗だなあだ」と言いながら、私を扉の所迄詰め寄った事があった。 そこ迄人を怒らしても私は動じる事もなくと言うと嘘になるが、その先生に「先生、血圧に響きますから、落ち着いて」と言っていたのである。 今から考えて見れば、皆甘えなのである。

私立の学校の良い所は、先生が変わらず、兄弟三人共同じ先生に習う事等ざらにあり、最近も二十年後輩が同じ先生に習ったと言って、大笑いした程である。 私は末っ子なので上二人を教えた事がある先生は皆好意を持って接していて呉れていたのである。 又、一度は、生物の試験勉強が間に合わずに、すぐ上の兄に「一つだけ覚えるとしたら何がいいだろう」と訊ねたところ、「メンデルの遺伝の法則だけ覚えておきば一点は取れるよ」と答えたので、それだけ覚えて行った事があり、百二十点満点のテストで一点だった事がある。 更に悪いのは、次の授業でその先生が、「今度は皆さん勉強なさったので、零点は居ませんでした」と、嬉しそうに言ったのに答えて、「俺一点だった」と、それも大声で叫んでしまったのである。 その先生も実に真面目な良い先生で、それも長兄が高校から転入する時にお世話して下さり、私の父親が生物の教師である事は当然知って居られた先生で、今も思い出すと本当に申し訳ない事をしたと感じている。 私は本当にひどい生徒だったのである。 或日、別のクラスで英語の授業を聴講していた私に、聴講と言っても、そんな制度があった訳でなく、只、暇だったから友達の授業が終わるのを待っていただけなのであるが、矢張り東大出の英語の教師が私を見付け、「ネズミみたいにチョロチョロしやがって」と罵倒したのである。 「ネズミみたい」という言葉にカッとなった私は「いつチョロチョロした、大人しく聴いているのに」と言って席を立って外に出て、それ以来、その教師の授業は出ない事に決めた。 英語の授業になると、私は喫茶店で時間を潰す事にした。 後で隣に座っていた友達に聞いたのだが、その教師は出欠を取る度に「柳田はどうした」と聞いていたと言う、その友達はその度に「今迄居たんですけど」と答えてくれていたそうである。 お陰で私は、卒業アルバムの、授業風景の写真に自分の席は載っているのだが、本人の姿は写って無いのである。 以来その教師は私が社会人になった今でも、同窓会で顔を合すと私から眼を背けるのである。 出席を未だ取っていたのだから、きっと二学期だったのだろう。

進学校だった為、高三の三学期からは出席を取らない。 それを知っていた六つ先輩の長兄が、母に、「芳秋は学校に行っていても何をしているか分らない」と言ったお陰で、私はその時から学校へ行くのを禁じられてしまったのである。 登校拒否という言葉はその当時無かったが、登校させない家族というのも珍しい。 それから一週間近所の図書館で過ごす事を試してみたが、どうも居心地がわるい、何よりも友達が居ないのは頂けない。 苦肉の策でその時私が編み出したのは、当時学校の一級先輩でもあった年子の兄が、原宿の予備校に通っていたのに眼を付け、予備校なら文句は有るまいと、予備校通いを思い付いた。

予備校では一つ年上の先輩ばかりだったので楽だった、年上の女性に恋心を抱いたのもこの時だった。 一緒にデパートに買い物を付き合ったりして、楽しい思いもした。 結局その恋は実らなかったが、その後その女性は都立高校から立教を受けて受かり、私が東急百貨店に入ってから一度売場を訪ねてくれた事があり、何回か会った記憶があるが、その時私は六本木で飲み暮していて、電話を貰っても誘いに乗れなくなってしまっていた。 その女性はある団体の主任か何かをしていた時、たまたま私の長兄が彼女の事務所にセールスで訪れた際、兄が私によく似ていたので聞いてみたら、本当だったという実に面白い話である。その時、兄から私の勤め先を聞いて訪ねて呉れたという訳だった。  予備校と言っても在籍している訳じゃないので、大部分の時間は喫茶店で過ごし、他は只ぶらぶら遊んでいた。 一度教室のマイクを悪戯して事務員に怒られ、悪な先輩に助けて貰った事もあった。 私は英語が出来たので、たまに模擬試験を身替わり受験して上げたりして、「生れて初めて名前が貼り出されたよ」と喜んで貰ったりし、色々学んだ時期でもある。  慶応大学の法学部の試験の全日、最後だから皆で写真を撮ろうという事になった、私は六階の教室の外のベランダの手摺に外を向いて座り、丁度角になっている斜向かいの場所から写真を撮って貰っていた。 その時誰かが私を驚かそうと入って来るのが見え、私は慌てて内側に戻ろうとして手摺から真っ逆様に落ち頭をコンクリートの床に嫌と言う程ぶつけてしまった。 その時頭から星が出ると言うのはこういうものなんだと思った。 試験も無事済んで入学が決まってしまった後で、この出来事と、小学校の時電車にはねられそれ以来頭が良くなったと先生に言われた事を思い出し、前の日に頭をぶつけたので何とか試験を無事クリアー出来たと一時本気で信じていた事があった。

夏期講習

高校三年の夏休み友達三人で、慶応外語の英語の講習に参加した事があった。 三人共バーミューダパンツの上にマドラスチェックのシャツを出し、サンダル履きで、流行のアイビールックをしていた。 口には煙草をくわえ、見るからに不良そのものであった。 講習が終わると三人で毎日、田町の駅前にあった森永キャンディーストアーに行き、私はそこでホットケーキを食べるのが日課だった。 そこにもウェイトレスをしていた可愛い子がいて、最後の日に思い切って声を掛けて、デートの約束をしたのだが、約束した澁谷の文化会館の前で私は目一杯めかして待っていたのだが、彼女は遂に現れなかった。 忘れられずに、後でもう一度行った時は彼女は隠れてしまい、他の強そうなのが出て来て、「此処ではナンパ出来ないわよ」と凄んだので、私はすごすご退散する他無かった。  その講習では毎日試験があり、私はその度に名前を呼ばれて得意になっていた。 会場でアルバイトしていた先輩が、「君たちどこの学校」と不思議そうに聞いて来た時も得意になって、「俺達は所謂世間でエリートと呼ばれているものだ」と得意になっていた。 丁度その頃六つ上の兄が、「パワー・エリート」という本を読んでいて、新しい言葉を使って見たかったに違いない。 その時参加していたいつもストローの帽子を被った上品で、清楚な女の子に私は憧れていて、いつもその子の後ろに座っては、後ろから消しゴムを貸して貰うのが楽しみだった。  最後の日に模擬試験があり、三人並んで試験を受けた。 私は英語がと言うよりも、英語だけが得意だったので、出来上がると隣に渡し、次が仕上がると又その次と言う様に三人で見せ会ったのである。 結果は、当然の事皆同じ筈で、十番、十一番、十二番と続いて名前が呼ばれた。 私達は調子に乗っていて全然気付かなかったが、そんな私達の行動を傍らで見ていて、気に食わない奴等だと思っていたグループが居て喧嘩になり、後日果たし合いをする事になった。 私達の仲間の一人の友人で、朝鮮高校に通っていて空手の得意な人間に頼んで、加勢して貰う事になり、果たし合い当日、私達は百人力とばかり慶応大学の三田キャンパスの入り口に乗り込んで行ったのである。 私達はその当時誰も免許を持っていなかったので、歩いて集まったのだが、先方は軽自動車に木刀とかの武器を積んでやって来て、その上矢張り空手の得意な人間が一人加わっていた。 その途端大乱闘になり、喧嘩の得意じゃ無かった私はあっという間に取り囲まれてしまった。 他の二人は木刀を持った人間に追い掛けられ、夏期講習をしている最中の教室を逃げ回り、一時はどうなる事かと思ったが、代表同志が話し合いどうにか決着が付いて私は救われた。 その時の相手の一人と面接の順番を待っている時に再会し仲直りし、他の連中とは、入学した後仲の良い友達になった。 私の憧れていた子とも、後で再会できたのだが、どうにも恥ずかしくて話しすらも出来ず私が逃げてしまった。

受験

慶応の法科に入ると中学三年の時から決めては居たものの、結局、経済学部、商学部、法学部の三つを受験した。 数学は姉の同級生の東工大に通っていた、父親が数学の先生をされていた人に家庭教師になって貰い、一応勉強はしていたが、結局数学のある学部は一次試験で落ちてしまった。 その頃慶応法科の受験科目は、英語、国語、日本史の三科目だけであり、その上英語は二百点満点だったので救われた。 英語は自信があったし、国語は易しかったので良かったが、社会は隣の受験生にお世話になってしまった。しかし、人選を誤り全然駄目だった。 後は、小論文と面接だけである。 願書を浪人をしていた年子の兄とその友達の三人で出しに行き、その兄の友達が一次試験で落ちてしまった為、小論文は兄と並んで受けた。題は確か「道」だったと思う。その時隣の兄に、進む道か、道路の道かと聞いた覚えがある。 兄は商船大学を志望していたのだが、私が慶応に一緒に通おうよと誘い込んだのである。  面接は歯の抜けた先生で、その時丁度私も差し歯が抜けていたので、親しみを感じた。 質問は私の提出した資料を元に行われた。 「趣味は」と訊ねられた私は、すかさず書いた通り「読書です」と答えた、 「今迄何を読んだ事がある」 それ迄大して本等読んだ事が無かった私は、「志賀直哉の『暗夜行路』とか、藤村の『破壊』とかです」と言って言葉に詰まり、後が続かなかった。 先生が更に追い討ちを掛けて、「他には」と言うので、私は仕方なく、「受験勉強が忙しくて、今迄は趣味に時間を割いている時間が有りませんでした、入れて頂ければ、趣味の読書も又出来る様になります」と答えた。 先生は続いて、生活信条について訊ねられた、私は即座に「個人主義です」と答えた。 その時その先生が、抜けた前歯を見せてにやりとし、「個人主義の前に、個が確立されてなくては駄目だよ」と仰ったのである。 合格発表の日は、予備校が用意したバスでみんなして行った記憶がある。 私と兄を含め、私と遊んで呉れていた先輩の受験番号は皆補欠のボードに載っていた。 家で合格の電報を受けた時、「二通ありますけど読みますか」と担当者が言った時は嬉しかった。 中学にしろ大学にしろ、私は上に兄が二人居たので、只兄の後を着いて行けば良いという感じで、本当に楽だった。 又、私の家は元々教育者の家なので、先生方もお願いすれば無理を聞いて下さったのだと思う。 社会に出てからこんなに苦労する事等その時は知るべくも無かったのだ。

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