自伝

サラリーマンを諦める

再度職を失った私は、自分が如何にサラリーマンに向かないか覚り、再び家に籠り考え込む様になった。 する事が無くなった私は、それならそれで、家の為に善かれと思い立ち上がろうとしたのが、裏目に出て、その後に起った凄まじい忘れる事の出来ない、母との闘争に突入してしまい、一時は再起不能とも言える打撃を蒙ってしまった。 不動産会社の社長に同行して貰った初めてのヨーロッパ旅行から帰った私は、その年の末も押し迫った頃に、祖父の墓前で立ちすくんでいたのである。 傷付いた私が、それ迄の人生を一度白紙に戻して、書き留めておこうと思い立ったのは丁度その頃である。 翌年の正月は、独りで過ごすのが嫌で、松の内が過ぎる迄京都と神戸で過ごした。 規則正しい生活が保てる様に私はイタリア語を習い始めた。 姉夫婦が行っていた教会に行きだしたのもこの頃だった。 何せそれ迄の気持をどうにかして一新したかったのである。 カトリックのシスターをしていた母の妹でもある叔母に会いに行ったのもこの頃だった。 小さい頃会った時の、厳しい叔母という印象しか残って居なかった私は、母とは対照的な叔母に接し、驚くと同時に、叔母がシスターになったのは、ひょっとして母を見て育ったからじゃないかと思ったりもした。

自分の気持を全て書き残そうと決心した私は、その時住んでいた豪徳寺の家の居間にデスクと書棚を購入し、勉強出来るスペースを造った。 デスクが届く迄の間は、祖父を御存じの先生に会ったり、祖父の教育に関する本を書かれた先生にお会いしてお話を伺ったりしていた。 書き始めてからは、普段から考えていた事を気が付く度にテープに録音し、それを箇条書きにして文章を起こしていった。 枚数も少なかったので、二月に書き始めて三月の半ばには終わってしまった。 文章を書いたのは、一時東急百貨店を辞めた直後成城の新築の家で纏めたもの位だった私は、稚拙な自分の文章に苦笑しながらそれでも何とか纏め上げる事が出来た。 私はその出来上がった原稿を自費出版の会社に持ち込み、担当の部長から、「枚数が少ないから、せめて百枚にしてくださいよ」と言われても、頑に、「百ページもあったら、私の文章等誰も読んでなんて呉れないですよ、本来、本に頼るなという内容の本ですから」と押し通し、「価格は幾らにしときましょうか」と言うその部長に、「どうせ売る事なんか出来ないんだから、非売品としといて下さい、名刺代わりに配りますから」と言って出来上がった一冊だった。 私がそこ迄こだわった理由は、イタリアであ出会ったある先生とお話した時の事がヒントになっていた。

或日私がフィレンツェの洗礼堂で天井の壁画を見ながら一人で感心していたら、後ろから声を掛けて来た人がいた。 名刺を下さってご自分が関西の大学からドイツの研究所にいらしている先生だと仰った。 何故かその教会から離れ難くて、そこで数時間すごしてしまった。何故かその教会から離れ難くて、そこで数時間すごしてしまった。 その先生が、丘の上の教会の床に描いてある星座のモザイクの魚座の部分が、魚の並び方が普通と違っているから見に行くと良いと教えてくれて、「私もどうせ独りだから、夜待ち合わせてお食事でも御一緒しましょう」と言って下さったので。 洗礼堂の有名な天国の門の前で待ち合わせる事にして私は丘の上の教会に向った。 歩いて丘を上ると、少し開けていて、大きな教会があった。 私は旅行する時、案内書を持ち歩かないので、その時はそれが有名なサン・ミニアート寺院だとも知らなかった。 その先生が、ミケランジェロの大家である事も日本に帰って来てから知った。 魚座と言われても私は専門家ではないので、その時の私には良く理解出来なかったが、見て回った。 教会の祭壇に近付くと一人の神父が歩きながらお祈りを唱えているのが見えたので、下手なイタリア語で入っても良いか聞いてみた。 その神父は、変な東洋人が自分から声を掛けて来たのが珍しかったのか、私に向って、「チノワ」と訊ねた、私は「ノ、ジャポネーゼ」と答えた。 祭壇に入る許可を得た私は、何故か凄く嬉しくなった。 丘の上で祈りを唱えていると、涙が止めど無くこぼれた。 何故かその教会から離れ難くて、そこで数時間すごしてしまった。 後で、その先生に声を掛けられた事を言うと、「私だって、声を掛けられた事何か無いのに、良い経験をしたじゃないか」と仰ったので、その時私は、「一応声を掛けてみるもんだな」と思った。 旅行案内書を持ち歩かないと、一つの所に行き着くのに普通の何倍も掛かってしまう事もあるが、思わぬ出来事に遭遇する事がある。 何れにせよその頃から老眼が進んで眼鏡無しには細かい字が読めなくなって来て居たので、たとえ案内書を持っていたとしても、普段眼鏡を持ち歩かない私には読めなかったかも知れない。 夜その先生と待ち合わせて、私がが友人と出版社を作ろうかという事になっていて、一緒に来た他の人間は先にパリの事務所に戻った話等を話している内に、教科書の話題になり、私が教科書は持ち運びが便利な様に小さくて、自分で考える様に余白を多くした方が良いとか、毎年売れる様に一年に一度書き変えた方が良いとかお話したりして、楽しく時を過ごさせて頂いた。 その事が、帰国した後に纏めた本が字が大きくて薄くなった理由なのである。

その頃の生活は、昼は執筆、夜は盛り場をふらつくという極めて不健康なものになりつつあった。 本を書き終わってしまうと、私には行く場所がイタリア語教室と飲屋位しか無くなってしまい生活が乱れて来てしまったので、成城で少しの間画廊に居た時代に知り合った方を頼りに何とかビジネスチャンスが無い物だろうか物色したりもしてみたが、悉く駄目だった。 イタリア語のクラスは昼は主婦しかいないと思ったので、少しでも仕事をしている人間に接していたいと思い、夜のクラスにしたのが災いして、クラスの後は必ずと言って良い程飲みに出掛けた。

親との対立

一時相続税対策と称して母親がマンション経営に乗り出した事があり、その時のやり方が余りに素人臭くそのマンションの会社の担当者と何やら会社を設立して、直接管理をするという事になっているらしい事を突き止めたのである。 これは一大事と乗り出し、一時母親が経営していた画廊の代表取締役をしていた事がある。 その会社の役員にもそれじゃまるで双方代理ではないか、それは違法ではないのかと詰め寄ったが、身内がそれをやっていたのでは、民法も何の役にも立たないものである。 筆者が代表になった途端母親のサボタージュが始まり一切の協力をしないのであった。 いくら流通業出身の自分でも、台帳は無し、予定表も無い画廊の経営は出来ない。 先ずそこから取り掛かろうとしたが、母は協力を拒絶したのである。 母親の横暴なやり方に批判的だった自分は、事有る毎に両親とぶつかった。 一時は暴力的にもなり父に詰め寄った事もある、後で彼女は芳秋が日本刀を振り回したと言いふらして歩いた、日本刀等俺には重すぎて振り回せる訳が無い。 普段から俺は武士だと言って威張り反っていた親父に、女房の横暴をここ迄許す男は武士だったら切腹しろと迫ったのである。 話し合おうにものらりくらり逃げ回って、話にならない、こちらがカッとなって一寸暴力的になると彼女の思うつぼである。 裸足で家の周りを今にも殺されそうな声を出して裸足で逃げ回る。 彼女のやり方は汚い、今考えれば、父をあれだけ腑抜けみたいにしてしまった女に立ち向かった自分の方が、無知だったとも言える。

ある日、母は企画中の展覧会を含め、全てを放り出して家を逃げ出したのである。 その日から私は、何も引き継ぎがなされていない画廊の業務に振り回された。 ある時名前も名乗らない人が画廊に電話をして来て、「何か御子息が御病気だそうで」と言った、その時私は、又母が自分を悪者にして言いふらしているいる事を知ったのである。 途中から母が居ないと何も出来ない父も居なくなり、夫婦揃っての逃避行をやってのけたのである。  その頃私は豪徳寺に住んでいたので、何時もの様に画廊に出勤すると、大きなトラックが横付けになっていた。 何が起ったのかと、慌てて外に出ると、「話があるのはこちらの方だ」と威丈高になっている男がいた。聞くと、弁護士だそうだ。丁度良いので、それでは画廊に行ってお話ししましょうという事になり、画廊で訳を話したのである。 こちらも法学部出身なので、法律は詳しいものだから、その時その弁護士を説得してしまい、それがいけなかったのである。 後でその弁護士を母に紹介した母の女学校時代の同級生のTさんに聞いたのだが、その後その弁護士は「芳秋さんの言っている事の方が、筋が通っている」と言って母を説得しようとしたそうである。言わば好意で仲裁してくれようとしたのである。 その時の母の言い草が奮っている。「あんたそれでも男なの、息子一匹抑えられないで」「誰がお金を払っていると思っているの」とその弁護士に言ったそうである。 そう言われたらどんな弁護士でも、業務に忠実に取り組む他は無い。 これも後で同じ人から聞いた話だが、母からこっぴどくやられた弁護士は、Tさんに「こういう話は、長引けば長引く方が儲かるんだ」と言ったそうである。

その後、その弁護士を通じて、「許可無く、別荘を含む敷地に立ち入る事を禁ず」、「実家に来て、暴言を吐けば法廷相続人の地位を剥奪する」という覚え書きを突き付けられて、代表取締役を辞任するか、一方的に解任されるかと迫られたのである。 私はは弁護士に「こんな一方的な覚え書きにサインする馬鹿がどこにいる、解任するなら勝手にやれ」と突っ返した。 結局姉夫婦に相談して間に立って貰い、こちらから辞任する事にした。 その時、今でも覚えているが、姉夫婦に立ち会って貰い、弁護士を交えて両親と話したのだが、義理の兄が「何故、芳秋さんに協力して上げないんだ」と言ってくれ、それ以来両親と義理の兄の間も気まずくなってしまったのである。 これもひとえに私が至らない為であり、申し訳無く感じている。 離婚以来、公式の席への参加は許されず、「これでは村八分ならぬ村十分である」と言っていた、家との確執が最高に達した時期である。 私にとって、母親の栄光の歴史はそのまま恥辱の歴史であり、矢張り両親との確執が決定的になってから、自分は変ったとしか言い様が無い。

読書に熱中する

この年はなんせがむしゃらに色々読んだ。 ルネサンスが東ローマ帝国がオスマン‐トルコに敗れて、東方の学問が入ったのが原因と知れば、ギリシャ正教の本を片っ端から読んだ。イコンが貧者の聖書だという事にすごく惹かれて、イコンの本を手当りしだいに読んだのもこの時期である。 色々読んで行く内にカトリックについての知識も不足していると思い再度おさらいもした。 又、ヨーロッパとアジアの間には、行った事の無い南アジアがある事に気付き、インドにも行った。 シュタイナーや人智学、神智学、薔薇十字団に興味を引かれたのもこの頃である。 最後はフリー・メイソンに行き着いた。

私が近代文明の仕組を会得出来たのもこの乱読のお陰である。 後から思えばここ迄手当りしだいに本を読まなければ、祖父を理解する事すら出来なかったのである。 ルネサンスに興味を持ち、様々な過程を経て柳田学に辿り着く迄に、柳田國男の娘婿、つまり私の叔父に当る堀 一郎の著作を読む機会を得た。 私が会社に勤め始めた頃祖母が亡くなって、柳田家もご多聞に漏れず相続争いの嵐に巻き込まれて行った。 その時わが家の敵と教え込まれていたのが、私の叔父である宗教学者の堀 一郎氏である。 彼が立派なな学者であり、國男を理解し学際的に発展させられる唯一の人間だった事すら自分は知らなかったのである。 彼こそが自分の探し求めていた「ミッシング・リンク」そのものだったのである。 これは日本の学問にとっても大きな損失であり、私の両親がもう少し大人になっていれば、私も誤解しなくて済んだのである。 これがやがて「親にインプリントされたものが間違っていたら大変な事になる」という私の自分探しの旅への出発点にもなるのである。

叔父の文章にこんなのがある。

「日本人は紀元前後から、つねに中国を、そしてインドをと指向し、外に権威を求めることを余儀なくされてきた。それはそれなりに意義のあることではあるが、日本文花が戦国時代にその真価が発揮されたということと、これは表裏一体をなす。それは内なるものと外なるものの相剋と超剋の過程をたどっているからである。しかし、現代には鎖国というような条件はもはやあり得ない。世界は狭くない、情報化社会は、世界のあらゆる動きを敏速に伝達し、その影響を及ぼさずにはいない。単に政治や軍事の問題だけではない。人文科学の分野にも、新しい西欧的アイディアは相剋と超剋を経る時間もないままに、奔流となって入っている。それは一種の不消化現象を起こしつつあるようにも見える。」

これが私が近代文明を研究する理由そのものであるが、私の場合「近代の相剋、超剋」の前に、両親との相剋がある。相剋と言う様な高次元の物では無く、「殺し合い」と言った方が正しいかも知れない。

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