自伝

ハワイの生活続き

その事件のあった少し前に、私はワイキキのハワイアン・リージェント・ホテルの中に あったワイキキ店に異動になっていた。 今度は、前の店の様に観光客は滅多に来ないで、お客さんの大部分が現地の日系人相手の商売と内容が百八十度変って、日本全国からハワイに観光で来る日本人相手になった。 扱い商品も観光客を対象にしたハワイの土産物だとか、ブランド物のアクセサリーだとかバッグに変った。 ゴルフ洋品売場もあり、途中からゴルフ売場を担当していた人間がビデオの貸し出しも始めた。 客層も様々で、芸能人も来れば、背中に彫り物入れた恐いお兄さんが、若い女の子を連れて来たりもした。 或時には、頭に傷の入った何処かで見た事の有る様なプロレスラーが入って来て、ダンヒルのライターを見せてくれと言うので、私が恐かったので、四割引にして売ってしまった事もあった。 或日私が出勤すると、店の前のカフェでARという有名な日本の女優が腰を掛けて居たので私が思わず会釈すると、彼女が店の中に入って来られ、色々話されてから、「誰も私の事を知っている人の居ないビーチ無いかしら」と言われた。 私が、「お連れしましょうか」と言うと、「お願い出来るかしら」と、気軽に言われたので、その頃はもう別れ話の出ていた女房に訳を話し、ARと彼女の妹さんを少し離れた所にあるビーチ迄お連れ事があり、翌日の朝食も私達が気に入っていた、或ホテルの中にある海に面した景色の綺麗なレストランで御一緒した事もあった。

当時私は毎日そこのカフェでジュースかミルクを飲んでから出勤していた。 その内そこで働いていた二人の女の子と仲が良くなり、途中から何も言わなくてもジュースとミルクがグラスになみなみと注がれて出て来る様になった。 その内金も受け取らなくなってしまったので、私はそれではまずいと思い、テーブルの上に十ドル札を置いて店に入り、後で彼女達が帰る時に返してくれる様にして貰った。 一人のCという方の女の子とは特に親しくて、家に訪ねて来た事もあった、その時女房が団扇で私を扇いでいるのを見て、目を丸くして信じられないという様な顔をして、「女は男の奴隷じゃない」と言って凄く怒った。 或日私がCと一緒に居た時に、彼女が私の煙草に火を着けてくれようとしたので、私が断ると、「男女同権なんだから、私が着けて上げたい人には着けて上げる」と言って、それからもずっと私の煙草に火を着けてくれていた。 Cは日系三世で、お祖母さんは沖縄からハワイに移住した人で、一度彼女のアパートで沖縄の踊りを見せてくれた事があった。 私はその時沖縄の踊りを見た事が無かったので、「一寸日本舞踊と違うね」と言ってしまい、彼女が不満そうに、「だって、これはお婆さんから習ったから間違い無い」と言ってむくれてしまった事があり、後から、「ああ、あれは沖縄の踊りだったんだ」と思った事もあった。 その時彼女が、「アメリカ人はすぐ抱き合ったり、キスしたりするから、自分も仕方が無くてするけど、本当は余り性に合っていないんだ」と、言ったのが今でも思い出す時がある。 その二人の女の子はボーイフレンドと四人で一緒に住んでいて、たまに家に呼んでくれ、五人でハワイ風刺身を食べながらマリファナ・パーティーをやったりもした。 私が店の前のカフェでミルクを飲んでいたりすると、二人で悪戯ぽい目をしながら近付いて来て、「良いのが手に入ったから後でキッチンに寄って」と言ってこっそりくれたりもした。

夜になると、そのカフェの隣のロビーの中央にバーがあり、そこで飲んだり、打ち合わせをしたりしていた。 私がワイキキ店に異動になった当日、店の担当者とそこのバーで夜酒を飲みながら打ち合わせをしてた時に、そこで働いていた女の子が余りにも生意気だったので私が文句を着けた事があり、少し経ってから私が店の責任者である事が判り、或日私がそこのバーで別の人間と話していた時に謝って来て、それからたまに話す様になった女性がいた。 そのRという一人の女の子とは、私が日本に帰って来てからもずっと交流が続いていて、彼女は私より六つ年下で、最初の内は私の事を年寄りだと言って馬鹿にしてたのが、自分も四十近くなって来たらめっきり弱気になり、「友達同志なんだから、結婚しようよ、結婚は友達同志が一番良いのよ」と言われたが断った。

丁度私がワイキキ店に異動になった頃、東横のれん街物産展が開催され、ワイキキ店のあったハワイアン・リージェント・ホテルに東横のれん街に入っていた老舗のオーナー達が宿泊されたので、私はその方達をアラモアナショッピングセンターにある本店迄観光バスでお送りする役を言い付けられ、バスの中で、本店にばかり売り上げを落とさないで、夜は遅く迄開いている、私の店に寄ってお買い物をして下さいとお願いし、沢山の社長さん方に買って頂いた事があっり、店が混雑したのはその時位の暇な店であった。

一度私がMと食事に出ていたクリスマスの晩に、店に泥棒が入った事があった 会社から店に連絡が入り、女房は私が誰と一緒に居るか知っていたのだが、私の事を虐めている上司に、それを伝える訳にも行かず、知らないの一点張りで通したらしい。 私が家にも居ない事が判ると、会社で問題になってしまい同時にそれが格好の柳田苛めの材料になって行って、その頃から私は社内でどんどん追い詰められて行ったのである。 私が居た店の開店時間は朝の九時から夜十時迄であり、一般の店員はシフト勤務をしていたのだが、店長だった私は十三時間続けて勤務しなくてはならない事もあって、それから飲みに行ったりすると家に帰り着くのが朝の四時位になったりして、段々生活が不規則になって来てしまっていた。

或日店のバーで日本からのお客さんと飲んでいて、その後いつもの様にMのアパートに車を走らせていて、スピード違反で検問に引っ掛かってしまった事があった。 その時私はかなり飲んでいたので、その場で行われた路上テストにも全て不合格だった。 そのテストとは、片足で何歩前進して何歩後退しろ、目をつぶって何回回れとかそんなものだったと思うが、何しろその時私はよれよれだったものだから、警官も呆れてしまい、「何杯飲んだ」と聞いたので、「二杯かな」と私が答えると、「嘘を付け」と言うので、「こんなに酔っぱらっていたら、何杯飲んだかなんて覚えている訳無いじゃないか」と、私が言った途端、私は、スピード違反に飲酒運転が加えられ、その場で現行犯逮捕されてしまった。 警官が、「ここに車は駐車したまま、御同行願います後で又お送りしますから」と言って、私はパトカーに乗せられ警察に護送される事になった。 パトカーの中でも、酔っていた私は、その日系人の警官に向って、「こんな事をしたら、日本だったらその場で免許証破かれちゃうぞ」と言ったりしていたら、その警官が、「日本の警察にも友達が居るから知っている」と話して呉れたりした。 警察に着くと、全部の指の指紋を取られ、「どのテストを受けますか」と聞かれたので、「日本に帰ってからの話題になるから、参考の為に全部受けさせてくれ」と言うと、「血液検査は、今日はもう終わったから明日迄待たなくちゃならないぞ」と言うものだから、「じゃ明日の朝戻って来るよ」と答えると、その白人の警官が奥の鉄格子をゆびさしたので、仕方が無いので、息の検査だけ受ける事にして、書類にサインした。 サインしながら私は、「飲酒状態のテスト迄犯人に選ばせるなんて、さすがに民主主義の国アメリカだ」と思った。 検査の最中もふざけていたので、警官に、「ずるするなよ」と言われ、日本より少し旧式な大きな機械に向って思い切り息を吐いたが結果はセーフだった。 それから間もなく私は解放され、私の車の停めてあった場所迄、又最初に私を逮捕した日系人の警官にパトカーに乗せて行って貰った。 道すがらその警官が私に、「もう今夜は飲まないと約束して呉れ」と言うので、私は、「飲んで客を接待するのが私の仕事だから、そんな約束は出来ない」と断った。 普段だったら十分で着くMのアパートに行くのに一時間半も掛かってしまった。

その頃は日本から来たお客さんを接待する事も多かった。 日本からハワイに来る男は大抵、「金髪は何処に行けば抱ける」としか聞かない人ばかりだった。 その頃私は日本から来た少年院上がりの漬物屋のKとよく遊んでいて、一度女を買いに行こうと誘われ、ダウンタウンにあった会員制のクラブに行った事があって、お客さんは大抵そこに案内する事に決めていた。 そこは表面上はスポーツクラブの様になっていて、会員になるには社会保障番号を登録しなければならず、現地の人間しか会員にはなれず、紹介された人間から百五十ドルを取り紹介した人間に六十ドル戻すというシステムになっていて、私達が接待に使う時は、原価でお連れする様にしていたので、皆さんから喜ばれていた、日本に帰ってからも暫くは、道で会った人が私に必要以上にニコニコして挨拶する時は、その時は思い出せなくても、後で、「ああ、あの時の」と言う感じであった。 もう一軒同じシステムで高級な所があり、そこは外車のお迎え付で原価が百五十ドルだった、本来なら三百ドルである。 そこは、コンドミニアムの一室を利用していて、居間でマリファナのサービス迄していたので、取締を逃れる為に定期的にに場所を変えて営業していた。

その頃Kに連れて行かれたデート・クラブ風の女の子を連れ出せる店で会った、アイダホから来ていた日本人相手の金髪の売春婦の姉妹を可愛がっていた事があった。 妹の方とKのアパートのベッドを借りて一度関係をした時、相性が良かったので、それ以来私は彼女の客から友達になった。 その時以後は、彼女は仕事で男と寝るので、私は遠慮する事にしていた。 それからは、彼女達が腹をすかせていれば、食事をおごってあげ、着るものが欲しいと言えば安いのを買って上げたりして、ずっと仲良くしていた。

或日もう私の帰国も決まっていた頃、その妹の方が名刺の束を出して私に見せ、「これ、サンフランシスコのクラブで働いていた時の日本人のお客の名刺」と言った。 見ると、そこには日本の一流企業のトップの人間の名刺が沢山あった。 その時私が、あるアイディアを思い付き彼女に、「俺が日本に帰ったらその人達の会社を回って、一人ずつから幾らか取り立ててお前にも分け前をやるから、その名刺を俺に貸さないか」と言うと。 彼女は、「それより、ペーパーマリッジしたがっている人を見付けてくれない」、「その人から一万ドルを取って、貴方にはその中から二千ドル上げるから」と頼んで来た。 そんな話が持ち上がっていた頃に、彼女はハワイでは稼ぎが少ないからと言って、姉と二人でサンフランシスコに戻る事を決めたのである。  私が、「向うに着いたら手紙をくれよな」と言うと、悲しそうな顔をして、「私アイダホの干し草の上で育ったから、字が書けないの」と言って、いつも常宿にしているというサンフランシスコのホテルの名前と、いつも自分が使っている偽名を三つ、ビーチでビキニ姿で撮った自分の写真の裏に書いてくれた時は、さすがの私もショックと悲しさを隠し切れなかった。 スーツケースの新しいのが欲しいと言うので、ディスカウント・ストアーで、広告に掲載されていた一番安い、布張りのスーツ・ケースにガーメント・ケースとバニティー・ケースがセットになった、如何にもアメリカ人が好みそうな三点セットを買って上げると、凄く喜んではしゃいでいた。 空港に送って行くと、彼女達だけは植物検疫の所で鞄をひっくり返され、下着の中に至る迄徹底的に調べられ、それでもめげずに帰って行った。 帰り掛けに空港の売店で、「ハワイ・ラバー」と胸の部分に入っている熊のぬいぐるみを買ってくれ、「貴方は私のハワイのラバー」と洒落を言っていた。 最後に別れを惜しんで私をハッグして彼女は去っていったが、私に買ってくれた熊もしっかり手に握っているのを彼女がゲートに入ってしまってから私は気が付いた。 その夜私が、ホテルのバーで働いていたRと海辺のロブスター・ハウスで最後の食事を済ませて店に帰ると、サンフランシスコに帰った彼女から電話があって、ロサンジェルスに行く事にしたから私にメッセージを伝えておいて欲しいと言っていたと、電話を受けた店員が教えて呉れた。

その後私も間もなく帰国する事になり、何年か後にサンフランシスコに旅行した時に彼女の事を思い出して探して居たら、そこで会った日本人のガイドが、「最近日本人相手の姉妹の売春婦の一人がエイズで死んだそうだ」と教えてくれた。 私がハワイに居た当時は、未だエイズ・ウイルスも発見されていなかった時代である。 私がパールリッジの店に居た時に心臓発作で倒れたH店長は、私が日本に帰されてから復帰して、倉庫のマネージャーになり、毎日ピンポンをして暮しているという話を後で一緒に働いていたHOから聞かされた私は、大笑いしてしまった。 そのH店長もその後日本に買い付けに来ていた時再び発作を起こし帰らぬ人となってしまい、その後HOも、出世せずに同僚が役員になってもマネージャーのまま頑張っていたのだが、不満が募り白木屋を辞め、ゴルフショップのマネージャになり、現地でモデルをしていた白人との混血のこぶ付きの美人と結婚し、飲み暮していた生活から解放されて、自分の子も出来てやっと幸せになったかと思った途端、ポックリ病でこの世を去ってしまった。 或朝奥さんが起きて見るとHOは既に冷たくなっていて、病院に運んだが手遅れで息を吹き返す事も無かったそうである。 私がハワイ去る時も、自分の彫った居眠りだるまとかいう変な奴を呉れた心の優しい男だった。 出来れば代ってやりたい位の本当に好い友達を私は失ってしまった。 私はあいつの事を思い出すと今でも涙が止まらなくなる。

私より先にハワイに出向になり、ノイローゼになり帰国させられた、あの英会話クラスのマネージャーも、会社を辞めた私に、「サラリーマンはいいぞ、何もしなくても給料をくれるから」と、しきりに言っていたが、その後、会社の金券を取り引き業者に押し付けて換金させ、不正行為を働いたとして、免職になってしまったと、風の便りに聞いた。 ハワイで私を、「お前は大学を出ているから嫌いだ」、「お前は英語を喋るから嫌いだ」と言って虐めぬいた、かつての部長も、その後ハワイで不正が発覚し、私が既に会社を辞めた後に、日本に戻され、一時、私が帰国後に所属していた、商事部に配属になり会社を辞めて、当時の取引先に勤め、そこのニューヨーク支店に勤務をしたと言われていたが、それも駄目で、新潟の彼の田舎に帰ったという話を耳に挟んだ。 最近お手伝いをさせて頂いた、麹町にある、私の高校の先輩の会社に、偶然、件のハワイの部長の息子さんと、ハワイに住んで居た時同級生だったという女性と出会い、その子から、「今度ハワイで結婚式を挙げるから、柳田さんも遊びに来てくれない」と電話を貰った時は、当時を思い出して、懐かしさがこみ上げると同時に、時代の移り変わりを感じさせられた。 ニューヨークに住む大学の後輩に当るNYがハワイで挙げた結婚式に出席した時も、丁度彼が結婚した三十四歳の時、私はハワイで離婚を決意した事を思い出し、結婚は大人になってからする物だと、つくづく思い知らされた、思い出深い場所でもある。

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