自伝

事件

四月の或日、いつもの様に私が、へら鮒釣りから戻ると家の電気が点いていた。 消し忘れは滅多に無いので、おかしいなと思いつつ車を停め、近所で買い物を済ませ扉を開けると、「お帰り」と言いながら、あのインドから帰って来て間もなく出て行ってしまったK子という女が玄関に出て来た。 私が、「どうやって入った」と彼女に聞くと、「大屋さんに頼んで入れて貰った」と言った。 私はその途端カッとなって、「余計な事をして呉れるな」と言いながら、電話に向って突進していたのである。勿論大屋に一言文句を言おうとしたのである。 慌てたK子は、それを阻止しようと私の手から電話の子機を取り上げようとし、私に近付き手を延ばしてその子機をもぎ取ろうとしたので、私は反射的にその手を振払おうとしたのだが、私はその頃も毎日へら鮒釣りに明け暮れて、「零点三秒の合わせ」と得意になった位上達していたので、かなり一瞬強い力が働いてしまったらしく、逆上した彼女が私に向って掛かって来たのだ。 少しの間揉み合っている内に、それでも未だ立ち向かって来るK子を私は殴ってしまったのである。 その後大屋さんに電話をした処、そこの家のお婆ちゃんが家から出て来て、平謝りに謝って、「可哀相だったから入れて上げちゃったのよ」と言うものだから、私もそれ以上何も言えなくなってしまい、その間に件の彼女は泣きながら居なくなってしまったので諦めて帰ったのか位に思っていたのが大間違いで、その後K子はよりによって、私が少し前迄釣りを一緒にしていた、別れたばかりのあの不動産会社のW社長の自宅に電話して、豪徳寺から三鷹迄わざわざ私の事を社長に訴えに行ってしまったのである。

その後私はW社長から、「彼女は雨の中を傘もささないで、泣きながらずぶ濡れになって家の前迄来たので、事情を聞いてやった」と散々小言をいわれてしまったのである。 その上家の留守番電話には、彼女から恨みがましい声で、「鼻が折れてしまった」とか「CTスキャンをしたら、頭蓋骨にひびが入っていたとか」散々攻撃をうけてしまったのである。 私も心配になって、W社長にその件を確認したら、W社長が怪我は大した事が無い様な事を言っていたので、少し安心はしたものの、それから毎日留守電のメッセージは一杯になる程電話されてしまい、たまたま私が家に居た時等は電話口で、「W社長が彼方の事、あいつは分裂しているって言ってたわよ」とか、「あいつにくっ付いていても、あいつは将来ろくな奴にならないって言っていた」とか「あいつに出来るのは精々柳田國男の事を少し纏める位だよと言ってた」等と散々の悪態をついて来たので往生してしまった。 電話攻撃が済んだと思っていたら、今度は毎日手紙が来る様になって、一時は本当に分裂してしまいそうな位だった。 W社長の事は日頃から信頼していたので、彼女から聞いたW社長の言葉は少なからずショックで、それ以来来に掛かっていて、ひょっとするとその頃私は本当に分裂していたのではないか、或いは今でもしているのではないかと未だに考える事がある。 私は友人達によく冗談で、「俺の魂が宿った身体はどうしようも無い遊び人で困っている」と言っていた事があり、心と身体のずれをたまに感じない訳でもないのである。

再起を図る

事件の起きる少し前の、確定申告の締め切り日前日の三月十四日も私は埼玉県の釣り堀に居た。 そこに税理士から私の携帯電話に電話が入り、「柳田さんの職業は今回は何にしておきましょうか、前回は美術品販売業だったんですけど、今回は取り引きが一度も無かったんで」と言ったのである、私は返答に困り、とっさに、「美術品販売業から販売を取ったら何が残る、美術品業だろ、美術品業という職種は無いから、美術企画業にしておいてくれ」と言って何とか申告に間に合わす事が出来た。  その後一度W社長の方から声が掛かり、フランスのブランディーの総代理店契約が出来そうだという事で、その計画に参画した事もあったが、調べて行く内に、原価は安くても酒税と関税を乗せると、一番下のランクのVOだと採算が合わないし、その上ブランディーの日本国内のシェアは有名な二つのブランドで九十九パーセントを占めていて、新規参入しても勝ち目が無い事が判明し断念した事もあった。 それ位何も旨く行かなかった時期だったのである。

事件の後も何とか独力で再起を図ろうと、自分のマンションを建設した際設立した会社を社名変更し、オリジナルのロゴ・マークも自分で考えて登録し、レターヘッドも揃え色々企画を立ててみたが、どうしてもお道具立てと理念ばかり先行して中々捗らず、その「芸術村」の企画書を、私のしたためた本と一緒に、キリスト教系のさる大きな会社に送ってみたりもしてみたが、秘書室長から、「柳田さんの本は実に面白くて、個人的には共感を覚えるが、自社の計画でさえ中止している時に、柳田さんの企画に大金を出せる訳が無い」と、御丁重なお断りのお手紙を頂戴したりして、どれもこれも旨く進まなかった。 その上、マンション建設を手掛けていた時に売却したビルが雨漏りしたと訴えられそうになったりして、母が私を追い出した時にお願いした弁護士に物件が違うから構わないだろうとわざと相談に行ったりして、ピンチもいいとこだったのである。 或時は、美術関係の企画会社を起こされたばかりの方から、「理念だけだったら誰にでも出来る」とあからさまに腐されたりして、段々自信喪失に陥って来てしまった。 名刺代りに作った本もその頃から配らなくなってしまっていた。

その頃インドに御一緒した宝石会社の社長の商のI氏から電話が入り、色々話している内に、「今度自分の会社に入った新入社員が聞いたら麻布高校だったんだよ」と言ったので、「俺にも一寸話させてくれよ」と言って電話を代って貰い、暫しその新入社員と学校の話をしてから、「今度行くから新入社員歓迎会やってやるよ」と言って再度I氏に代って貰い、私の学校の事は何も聞かされていないI氏は傍で何が起ったのか分らずにきょとんとしていたらしく、事情が分って凄く喜んで、数日後に飲み会をする事になり、その後輩とは個人的にも付き合う様になった。

少しして、その後輩に協力して貰い、以前家の近所に出来たラーメン屋でつまらなそうにラーメンを作っていたK君も加えて、若い人間を集めて貰い、芸術家のギルドを作ろうとしたり、ありとあらゆる事をしてみたのだがそれでもいずれもヒットしなかったのである。 一度はそのK君の紹介で或出版社に、今から考えれば自分の実力もわきまえず、身の程も知らずに、出来上がった本を持ち込み編集者に相談に行った事もあった。 そのK君と、社命変更の際に登録しておいたロゴ・マークを使用した商品を開発しようとして、見積もりを依頼して、そのロットの多さに驚かされ後込みしてしまっ事もあった。

その後、たまたま東急百貨店を紹介して差し上げた、或会社の若社長が東京に出て来られる度に誘って下さる様になり、その間に立った、東急百貨店時代の同期で、会社を辞めた時にもわざわざ四国から出て来てくれた宇和島のTが連れて行ってくれた銀座の或バーの娘が、「柳田さん、一生に一冊本を読むとしたら何を読んだら良いと思う」と私に聞いて来たので、すかさず私は、「今俺の書いている本がもうすぐ上がって来るからもう少し待っていてよ」と答え、少ししてから一冊そこに持って行き彼女に上げた事もあった。 彼女は今では売れっ子のモデルになってしまい、交流も跡絶えてしまったが、私の本を読んで呉れた記念すべき最初の人間になった。

それ以来そこのバーのママが私の事を、「先生、先生」と呼ぶ様になり、私は先生でも社長でもないので、飲屋で客を先生とか社長とか呼ぶあのやり方が今でも今でも嫌いである。 その内に段々外で酒を飲む回数も増え、別に誰と会う訳でも無い時でも盛り場で過ごす時間が多くなって来て、私の生活は再び以前と同じ様に只飲み暮すだけの生活になってしまて来ていた。 その社長も色々気を使って下さり、実業界の方を御紹介頂いたりもしたのだが如何せん、私の企画の現実味が薄かったので、結局色好いお返事は頂戴出来ずじまいに終わった。 そんな泣き面に蜂の状態の私を見るに見兼ねて、件の不動産会社のW社長が声を掛けてくれたのである。 その時出た結論は、家賃収入で生活していると、どうしても仕事をしようという気力がそがれるので、その時私が所有していた平塚市にあった四階建てのマンションを先ず売ろうというものだった。 その頃既にそのマンションの価格も下落し、繰り延べしていた税金を支払うと手元には大して残らないという計算であったが、そのまま所有し続けても、賃貸専用に建設した物だったので、耐用年数もそう長くは無く、老朽化が進めば家賃も下げなければならず、維持費も増加するのでその時私も売り時と判断し、W社長の意見に私も同意してマンションを手放す事にし、売却する事にしたのだ。 程なくしてマンション無事売却出来、今回はその第一環としての企画だった。 その企画は、W社長の義理の弟さんが経営されていた画廊をお閉めになって、そこで扱っていた商品をアメリカに持って行ってオークションに懸けるという内容の仕事だった。

オークション

オークションの仕事は実に楽しくて、私にとっては久し振りに充実感を味わえた仕事だった。 W社長の奥様の御実家が、食料品の卸問屋を経営されていて、弟さんが後を継がれ、一時画廊を経営されていた事があり、景気が悪くなって来たので趣味でおやりになっていた画廊をお閉めになったと言う事だった。 その時の商品は丁度日本でブームの頃仕入れた物ばかりだったので、価格がその頃仕入れた当時の価格の四分の一になってしまっていた。 たまたま食料品の部門が次の年度に二億円位の黒字になりそうな見通しだったので、絵画部門の赤字をそれと相殺しようという計画であった。 商品は既に、ニューヨークのサザビーズから担当者が来て見積もりが出ていたので、あとはオークションに掛けて売るだけになっていた。 簿価が二億三千万の商品を三千万そこそこで売る計算になるので、話は簡単であった。 丁度私が成城の画廊で母とトラブルを起こしていた時に、親切にして下さった方がその時も、ニューヨークに住んでいるその業界に詳しい人間を紹介して下さり、たまたまその人が慶応出身で私の後輩にあたったものだから、事はとんとん拍子に進んだ。

私は先ず東京にあるサザビーズの事務所に行き、日通の美術品部門を紹介して貰い、そこに依頼して、梱包から保険、発送迄を手配し、商品の到着を確認してから一度ニューヨークに打ち合わせに行き、カタログ掲載等の手配をして一度帰国し、年が明けてから再度出向き、後はオークションに望むだけになった。  暮に出向いた時はホテルを利用したが、後で紹介されたNYに相談して、ホテルに泊まるより彼のアパートに泊めて貰った方が安上がりであるし、浮いた金を少しでも彼の生活の足しになる様にした方が双方に取って経済的に助かるので、翌年行った時はそうする事にした。

オークションの仕組は簡単でオークション当日は目玉以外は担当者が事前にに自分の顧客に連絡して見通しを立てていて、言わば出来レースであり、見積もり価格と別にリザーブ価格というのを設定してあり、それ以下では落ちない様になっているのである。 大体の商品はそのリザーブ価格で取り引きされ、最初から卸し価格の様になっていて業者が落としても充分再販出来る様になっている実に旨く出来たシステムである。 顧客が見積もり価格で買えば、業者も売り値の数十パーセントは確保出来るという仕組である。 カタログ掲載料も馬鹿にならず、モノクロは大した値段ではないが、カラー掲載は馬鹿高い料金で、その上先方指定である。 手数料にしても、売る方、買う方の両方から取り、さすがマーケティングの国という感じである。

出品した商品は数十点あったが、も一点を除き裁けたのでまずまずの成績だった。 その売れ残った商品も既に原価算入してあったので私がW社長から頂き、送り返すと余計な金が掛かる為、ニューヨークに置いたままになっていたが、後にその後輩が結婚した時に奥様が気に入っているとの事だったのでプレゼントした。 残った商品を倉庫から引き取る手続きにしろ、サザビーズの東京事務所に聞いた時は、所有者のサインが無ければ絶対駄目だと言われたが、一応直接掛合ってみたら簡単に返してくれた。 日本の事務所を訪ねた時も、女性の担当者が気負っていて、何でも東京の事務所を通さないといけないみたいだったが、直接出向いてて交渉した方が余程簡単だという事が判って、その後輩とシステムを作ろうかと一時は真剣に考えたがとうとう実現しなかった。

会場には様々な人間が来て居て、次々に紹介される絵を見て、競りを楽しんでいた、日本人の団体も目に付いた。 印象に残ったのは、私の席の後ろに居た父親とその娘らしき小学校の低学年位の女の子である。 その子が、父親と思しき風体賎しからぬ如何にも金持ちそうなその人物にに、「あれが欲しい」と耳打ちすると、その子の誕生日プレゼンとか何か判らないが、日本の家には到底収まり切らないを大きな、一万五千ドルもするカンディンスキーの絵をその人は事も無げに競り落としてしまったのだ。 その絵は子供部屋に合いそうでポップな実に素晴らしい作品だった。 私はそれを見て、アメリカのスケールの大きさを感ぜずにはいられなかった。

その時も別の話で、W社長の家の近所にお住まいのデザイナーの方が、会社を辞めて画家になりたいという話があり、その方の絵を携えて、ソーホーの画廊のオーナーの見せに行った事があった。 それはフォト・リアリズムの絵で実に美しく、まさにデザイナーの描いた絵であるという感じでオーナーの評価も高く、「売れそうなので、作者に一年に何枚描けるか聞いて呉れ」と言われ、帰国してそのままを報告して一時は旨く進むかに見えたが、後に画廊から「モチーフがオリジナルじゃ無くては困る」という連絡が入り、駄目になってしまった事もあった。

ニューヨークに出発する前、日本居るイタリア人の友人がミラノで従兄弟が美術品の小売店を経営しているので日本での展開の可能性について従兄弟と話して来て呉れないかと頼まれたので、ニューヨークでのオークションの仕事が済んだ時W社長がパリに滞在して居たので、途中でミラノに寄ってからパリに行く許可を貰いミラノに行った事があった。 結局、私の友人は従兄弟からの評判が悪そうな感じで、何れにせよいくらミラノの額装が良くてもそのまま日本で展開するには無理がり、既製品はアメリカからの製品が多かった為、その話は保留になってしまった。 その後、その従兄弟が翌月にニューヨークのアート・エキスポに出品するからそこでもう一度打ち合わせをしようと言い出したので、私はパリから又ニューヨークに戻る羽目になってしまった。 こういった金が出て行くばかりの仕事は、当時沢山あったので嫌になってしまった。

その後でオークションの報告をしにパリに行き、そのついでに現地の人相手の焼き鳥屋を開く計画の視察をした事もあった。 丁度その頃は日本の駐在員もどんどん引き揚げていた時期で、日本人駐在員相手のレストランは売り上げが下がって来ていた時期でもある。 フランスには当時未だ、W社長の秘書の女性が滞在して居り、W社長も彼女の仕事を何か考えなくてはと思っていたみたいでもあったので、私もその頃は日本に居る必然性が無かったので、参加を申し入れたのだった。 色々見て回ったが、フランス国内の景気が当時かなり悪かったので、結局断念せざるを得なかった。  その後私は大雪の中を再びニューヨークに戻り、アート・エキスポに行って友人の従兄弟を待ったのだが、結局大雪で彼の乗った飛行機が遅れた為会えずじまいに終わった。 日本に帰ってからそのイタリア人の友人に、「お前、従兄弟に評判悪いんじゃ無いか」と言うと、「僕の事は信用していないんだよ」と残念そうだった。 その年は、ニューヨークは何年振りかの大雪に見回れ、幸い私がパリとの間を往復した日だけ偶然往きも帰りも空港が閉鎖されなかったので、それだけがせめてもの救いだった。日本に帰ってからも、NYを含めその時会った人達との商売の可能性を、一生懸命探ったが何一つ物にならなかった。 その後、ニューヨークの私の後輩のNYの扱い方の事で私が腹を立てた為に、W社長とも疎遠になってしまい、W社長も会社の営業権を、下で働いていた、以前私の設立した会社の名称のアイディアを出してくれたNという人間に譲渡して、すっかり引退を決め込んでしまった。 丁度その頃私も、私の当時住んでいた豪徳寺の家の家賃が更新になり、成城の家からの収入とのバランスが崩れ、現在の大蔵のマンションに引っ越す事を余儀無くされてしまう事になった。

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