自伝

インドに行く

或日、Kという私のインド人の友人から電話で、十月に彼の故郷のジャイプールという町で、ディワリというお祭りがあり、マハラジャの宮殿でパーティーがあるから、自分がインドに帰る時もう一人宝石商をしている彼の友人と私も一緒に来ないかと連絡が入った。 丁度その頃私も、ルネサンスの研究も良いが、ヨーロッパと日本の間には、行った事の無い南アジアがあるし、と思っていた矢先で、インドはそういう機会じゃ無いとなかなか行けないと感じたので、その誘いに乗る事にしたのである。 しかし、その頃私はイタリア語の入門クラスを終え、初級クラスを途中で嫌になってやめて何もしていなかったので丁度良かったのであるが、そのクラスで会った女性と一緒に暮らし始めており、その子の都合も聞いて見なければならず即答を避けて、後で連絡をする事にしたのだが、たまたまその彼女も興味があると言ったので、一緒に行く事にしたのである。

そのインド人との出会いが又珍しく、たまたま私が、或日二子玉川の高島屋に行った際に、そこの催事場でアジアの物産展をしているのを見付け、上の階迄見に行った事があり、その時彼が自分の会社の商品をそこに出品していた時に知り合ったのである。 私がその時、インド人の金細工のコーナーの前で、実演をしていたので見物がてら何気なくショウケースを覗いていると、一つの小箱が眼に止まり、皆二万円位の物ばかりだったので、安心して見ていると、一人のインド人が「お見せしましょうか」と寄って来たのである。 私は、その箱を指差し、「俺が買うならこれだな」と彼に言ったのであるが、見せて貰って値段を聞いてびっくりしてしまった。何と百万以上もしたのである。 その小箱は、少し補修した箇所があり、中のガラス部分にヒビが入ってるものの、見れば見る程それが実に良い出来栄なのである。 私はその当時一応美術商を自認していたので、己の目利きに酔ってしまい、悪い癖が出て無性にその箱が欲しくなってしまったのである。 彼も、他の商品と違いまさか売れるとは思ってもみず、只参考出品していただけだったので、いくらにして良いのかも判らない状態で、後日直接という話もあったのだが、私はデパート出身なので、未だに何か、間を抜いて直接業者と交渉して買うというのに罪悪感を覚え、その時も彼と相談をしをて、高島屋にも少し落とそうという事になり、売場の人間を間に挟んで交渉し、折り合いの付いた値段で買う事に決めたのである。 たまたまその時私の持っていたクレジットカードが期限が切れていて、私は彼にお取り置きを依頼してその日は帰り、翌日新しいカードを持って買いに行ったのである。 彼はまさか私が本当に買いに来るとは思って居なかったらしく、びっくりした顔をしていたが喜んで、それ以来友達として付き合って来ていたのだ。

当日成田で待ち合わせをし、宝石商の彼の友人も紹介して貰い、それから四人の珍道中が始まった訳である。 ニューデリーに到着すると、その日は空港近くのホテルで一泊し、翌朝飛行機でジャイプールに向った。 搭乗したのは良いが、私の席に知らない白人の男性が座っていて、私が、「それは私の席だから退いてくれ」と言うと、困った顔をして、「私の席には、知らないインド人が座っていて、私も仕方が無いからここに座った」と言ったので、私は、「そんな事はお前の都合だろ、俺には関係が無いから退いてくれ」と、無理矢理その人を追い出してしまった。 その時Kが私に、「空いている席に座れば良いじゃ無いか」と言ったので、その時私は、「ああ、インドという国は、日本と違って皆穏やかで、のんびりしている国なんだ」と、覚らされたのである。 インドでは見るもの聞くもの始めてのものばかりで当惑したが、学ぶものが沢山あって、食事に多少問題は残るものの、文化の違いを勉強するにはうってつけの所だった。 特に私達が行ったジャイプールという町は、ヒンズー教の戒律を厳しく守っている場所な為、肉を食べさせるレストランが二軒しか無く、ビールを飲む人が少ないので困ったが、段々に慣れて行った。 ハンバーガーとは言っても、肉はマトンで慣れるのに苦労したが、それよりもビールを飲みながらハンバーガーを食べていると、周りの人達から、何か下賤なものを見る様な目付きで見られるのには閉口した。

Kの一家は代々芸術家らしく、お祖父さんは画家で、お父上はそこの博物館の館長をしていた。 博物館にも案内して頂き、そこに展示されていた古い大きなタペストリーはインドの伝統と歴史の古さを物語っていた。 Kは当時、日本で稼いだ金で自宅を建築中で案内して貰ったが、四階建ての白い建物で、何年も掛けて順繰仕上げて行くと言っていた。 Kはその近くに、工房を所有していて、そこでは、棉織物と絹織物の二つの工房に別れていて、棉の織機は鉄製で屋内に設置されていたが、絹の方は伝統的な木製で外に置かれて居り、一人の老人が、地面に置かれた低い織機に向って自分は土に穴を掘ってそこに座り、もくもくと制作に励んでいた。 建築中の家にしろ、工房にしろ、彼の夢がそこにあった。 彼の家に招待され屋上で食事をした際は、真っ暗な屋上で、彼の姪ッ子の踊りを見せて貰った後で、車座に座り、何かの葉っぱで出来た皿で、食べたカレーは格別だった。 その時の私達に出された食事は、彼の母上が私達日本人の為に特別に配慮して味を控え目にに作って下さったものだったので安心して食べられた。

ジャイプールで私達の最初に泊まったホテルは、昔マハラジャの宮殿だった所をそのまま使用しているホテルで、私達が帰国した直後、秋篠の宮御夫妻も御宿泊になられ、スイート・ルームには部屋の中にプールがある様な豪華なホテルだった。 パーティーの前に私は又トラブルを起こしてしまった。 Kがパーティーの直前になって、「妹が鼻を怪我して病院に連れて行かなくてはならないから、お前達だけで行ってくれ」と言い出したのだ、その時彼の付き合っていた日本人の女性もインドに来ていて、本来なら心配する事等無かったのかも知れないが、その時の私は、成田で初めて会った宝石商の人と私達三人が取り残された気持がして、突然心細くなってしまったのである。 私は車の中でKに向って、「何でそんなに無責任なんだ、俺達はこのパーティーに出席する為にわざわざ日本からやって来ているのに、呼んだ本人が行かないとは何事だ」と、皆の前で怒鳴ってしまったのだ。 その時車を運転して呉れていたのは、紅茶の農園を引退して、ディワリのパーティーの為遠路カルカッタから帰って来たばかりの、Kの親戚の小父さんで、Kが仕方が無く着替える為に家に戻っている間に、私に優しいが実に厳しい声で、「皆人間には都合ってものがあるんだ、相手が駄目だと言ったら、「ああ、そうですか」と何も聞かないで受け入れるもんだよ」と言ったのである。 私もその時は興奮していて、小父さんの説教も耳に入らなかったが、最後にその小父さんと別れて握手を交わした時、私に、「でかい男になれよ」と言った時は、さすがの私も、まずい事をしてしまったものだと暴言を吐いた自分が恥ずかしくなってしまった。

マハラジャのパーティーでは街の中と違い、列席している方々も上流階級の人達ばかりで、そこでは皆英国仕込みの流暢な英語で話をしていて圧巻だった。 中でも御婦人方が着けている鼻飾りには宝石がちりばめられ圧倒された。 一人魅力的な方がいて、彼女が着けていた扇型で色とりどりの宝石がちりばめられている鼻飾りはひと際眼を引き、思わずミーハーになってしまい、一緒に記念撮影をお願いしてしまった程印象的だった。 彼が、スーツ着用と出発する前に言っていた時は、沙漠の真中の熱い所で何故と思っていたが、その訳がその時理解出来た。 親戚の小父さんもシーク教徒特有のターバンを巻いて、特別な礼服に着替えて列席していた。 中庭では、打ち上げ花火を続けざまに打ち上げて、お祭りをいやが上にも盛り上げていた。 パーティーがお開きになり外に出ると、宮殿の内側とは打って変って騒がしくなり、まるで町中の人間が外に出て来てしまった様で、宮殿から車で外に出ようとするのを覗き込み、初めての人間にとっては少し恐ろしい感じさえした。 興味を引かれたのは、貧しそうな人達も皆一様に幸せそうな顔をしていて、何処かの国とは大違いで正反対の感じがした事である。

次の日、マハラジャのお姫様にお会いする為に、再び宮殿に出向いた。 部屋に通されると、部屋にはイギリスのチャールズ皇太子御夫妻の写真や、植民地時代の虎の狩猟の時の写真がが飾られ、外とは違い英国風の佇まいであった。 宮殿の中では、英国から来ているお姫様専属の金髪のデザイナーが、テニスのラケットを片手に、短パンで颯爽と闊歩していたりして、一般市民の生活との差を感じさせ、お姫様は、さぞ退屈だろうと思っていたら、よくニューーヨークに買い物に行くと言われ、そこに居て現実を忘れそうになってしまっている自分に気付かされた。 道はバイクと自転車の間をバスやトラックやそれにラクダの引く車までが、人や物を満載して通り、クラクションの音が絶えず響き、混沌とした中に、様々な人々が行き交い、さながらこの世のの縮図であった。 街の中の、サリーの生地を売っている店に行くと、普段着用の物から、正装用の錦糸の刺繍入りの物迄、使わなくても一枚欲しくなる様な商品がずらりと並んでいた。 町中の宝石店は金製品を買う家族で賑わい、宝石のマーケットでは強面のどこか無言の威圧感のある宝石商が床の上に座って取り引きをしていて、慣習の違いをまざまざと見せ付けるかの様であった。 山の上で像に乗っては驚き、お寺に行けば牛が小便をすぐ近くでしていて驚くといった、驚きばかりの旅であった。

Kが祭が済んだら近くで行われるラクダの市場に連れて行ってくれると言っていたのだが、十日間近く居てカルチャーショックを受け、その時私もくたびれてしまって居たので、内緒で国外脱出する事に決めた。 その時泊まっていたホテルのマネージャーに頼んでニューデリー迄の航空券を買って来て貰おうと依頼すると、「パスポートとお金を私に預けて下さい」と言うので、困ったなと思いながら渋々出して渡したのだが、預り証も何もくれないので心配になって、「預り証が無いのか」と訪ねると、「そんな物は要らない」と言うので、私は、「私は、預り証も無しに、他人に金とパスポートを預けた事は未だかつて無い」と必死で説明し、相手が仕方なく自分の名刺の裏にサインする迄ねばりやっとの思いでニューデリーに行く事が出来た。 後で考えて、習慣の違いを知らないという事は恐いなと思うと同時に、そのマネージャーは上品で教養もありそうな人で、人を騙す感じは全く無く、何故自分がそんなに猜疑心が強くなってしまっていたのか、自分を恥じたものだった。

ニューデリーに着いて、コンノート・プレイスという唯一の国際性がありそうな英国風の植民地風の場所にあるホテルに宿をとり、インド航空の事務所に電話を入れた。 私が三日後に日本に帰国したい旨を伝えると、電話に出た人間が三日後は満席で次の日なら空席が丁度二つあると言ったので、すぐに航空会社の事務所に出向き予約を入れた。 次の日空港に行くと、私達の便は六時間遅れで、空港のロビーで延々と待たされたが、何とか無事で日本に帰り着く事が出来た。 帰ってから、インドから電話を貰い、事情を説明し分って貰えたが危うく友達を失う処だった。 それも、私の心の狭い考え方で、インド人だったらそんな事も気にしないかも知れない。 一緒に行った女性とは、彼女がインドのど真ん中でも、「グッチのスカーフが欲しい」と言い続けたので、それ以来旨く行かなくなり、日本に帰って来て間もなく、彼女から家を出て行ってしまった。

へら釣り三昧

再び独りになってしまった私は、その年の十二月再びイタリアへ、今回は一人で旅立った。今回こそまさに巡礼の旅である。 朝ホテルで朝食を済ませてから、私はあてども無く歩き続け、途中で教会を見付けると入って行き祈りを捧げるという毎日であった。 クリスマスが近付き街が賑わいを見せ始めると、無性に寂しくなり日本に帰りたくなってしまったので、私は予定を早めて帰って来てしまった。 ディスカウントチケットだったので、その時は幾ら交渉しても負けて貰えず、別に日本に帰っても何のあてが有る訳でも無いのに、仕方なくペナルティーを払った程帰りたかった。  年が明けて正月が過ぎても今回は回復で出来ず、再び件の不動産会社のW社長に相談に行き、その時彼がへら鮒釣りに凝っていたので、私も同行させて貰う事にした。 それ迄は、ブラックバス位しかやった事が無かったので、今回は精神修行も兼ねて、大人の釣りに挑戦してみたくなったのである。  W社長が、「最初は絶対一匹も釣れないよ」と言ったので、「私は釣りには自信がありますから」とは言った物の心配だったが、何とか数尾釣り上げてそれから暫く病み付きになってしまった。 始めた頃は未だ寒くて、手がかじかんでしまい、それでも毎日の様に出掛けた。 最初はW社長の道具と仕掛けを拝借して、餌もW社長が作ってくれたのを使わせて貰っていたが、上達するに連れ段々道具も増えて行き、仕掛け造りも旨くなっていった。 折角修行の積りで始めたのだが、私の荒れた心は中々治まらず、或日私達の通っていた釣り堀の若い主人が釣っている私の後ろに来て、私の餌の付け方がいけないだとか、ああでもない、こうでもないと言うものだから、思わずカッとなって池に突き落としてやりたくなった事があり、その事をその主人が居なくなってから、隣で釣りをしていた社長に話して、「修行じゃ無かったら、今頃突き落としている処だった」大笑いした事があった。

少し経った或日W社長が、「釣り堀だけじゃ面白くないから今度は、湖に連れて行ってやる」、「湖のへらは引きが強いから大変だぞ」と言って、ある湖に連れて行って呉れた事があった。 私が初めての湖のへらを大苦戦して引き上げていた時に、隣のボートからこちらを見ている人に気付いて見ると、その釣り堀の主人が偶然来ていて、私が機嫌良く挨拶をすると、全然釣れていなかったとみえ、知らない内に居なくなっていた事もあった。 私が上達して来たので、今度はW社長が、「へら鮒釣りの会に入会しよう」と言ったので、ある会に入会させて貰ったのだが、一度泊まり掛けの例会に参加した時に、私が同じ部屋で雑魚寝していた誰かのいびきがうるさくて眠れないとごねたので、車で連れ出して近所をひと回りしてして呉れた事があり、次の日W社長が寝不足でボートの上で気分を悪くして棄権してしまい、大迷惑を掛けてしまった事もあった。 その後修行の甲斐も無く、私はある事件を起こしてしまい、一時W社長から見放されそうになってしまった。 未だ私の修行が足りなかったのである。

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