自伝

結婚・離婚

結婚する

いくらお見合いしても埒が開かない私を見て、母は最後の手段を提示して来た。 それは私が大学生時代付き合っていた彼女である。 五年以上も前に私が付き合っていて、卒業と同時に別れたYである。 その時迄私は母とYの交流がその日迄続いていたのを知らなかった。 彼女の事は、私が就職してから一時ボウリングに凝っていて、成城の東宝撮影所の跡地に出来たボウリング場に毎週定休日になると通っていた時があり、その時に一度駐車場で見掛けた事があったが、声を掛けた訳じゃ無いので、記憶の彼方に去ってしまっていたのである。 Yは大学を卒業すると同時に、私の家の傍の洋裁学校に入学し通い始めたのだと言う。 その後彼女は、私が東急百貨店に就職したのを知り、自分はある子供服の会社にデザイナーとして、就職したらしいのである。 それ迄、母の嫁いびりを見続けて来た私はその時、母が気に入っている女性と結婚するのが一番良いのだと判断し、決断したのである。 後にそれが必ずしも最上の判断では無いと覚る迄は、それを信じて疑わなかったのである。 それは、私が一度は彼女に見切りを着け、私の職場に彼女の父親が来て、私にもう一度考え直して呉れと頭を下げても、断った位辛い思い出だったからである。 その嫌な思い出から回復して、思い出しても平気になる迄五年以上も掛かった事をもっと深く考えるべきだったからである。

悪いのは全て私である。私が大人になり切っていなかった事が全ての原因なのである。 それでもその時の私には、それ以外考えられなかったのである。 私は母に、彼女に早速連絡を取ってくれる様に頼み、再会するのにさして時間は掛からなかった。 独立したくて仕方が無かった私は、Yと再会した途端救われたと思い、即結婚を決意したのだが、彼女が何をその時考えていたか迄気をまわす余裕すら無かったのである。 再会を果して暫くして私は、彼女に結婚を申し込んだ。 私の期待に反して、Yの答えは、「一週間考えさえてくれ」というものだった。 期待を背かれた私は、突然我に帰り「考える位だったらやめた方がいい」と、普段の私が如何にも言いそうな答えをしていた。 翌日彼女から連絡が入り、二人は結婚する事に決まった。 その頃丁度すぐ上の兄もお見合いを済ませ、結婚の準備をしていた。 勿論男だから準備と言っても大した事はない。 私達二人は、そこに割り込んで、先に結婚してしまったのである。 結婚式は成城のカトリック教会で済ませ、その後で近所のレストランで内輪だけの小さなパーティーを持った。 披露宴は準備の関係もあったので、落ち着いてから別にする事にしたのである。 新婚旅行は私が当時貿易に所属していた事もあって、ハワイに行く事になった。 ハワイには丁度長兄が交通公社から赴任して行っていたのですぐ決まった。 仕事絡みの様なもので、二人で甘い夜を過ごすという様な感じでも無かった気がするが、よく覚えていない。 それとも、始めから左程燃えていなかったのかも知れない。兎に角不明である。 きっと離婚してから、嫌な思い出として葬り去ったのかも知れない。 只泊まったホテルのスイート・ルームにフルーツとシャンペンが用意されていて、兄が特別に手配してくれていた事にすら気付かず、ハワイって凄い所だなと驚いていたのだけが記憶に残っているだけである。  三田綱町の三井倶楽部でした披露宴には沢山の人が来てくれて、会場の雰囲気も良く成功裡に、滞り無く終わった。 招待状の準備をしている頃、昔慶応大学の理事を勤めた事がある彼女の母方の祖父が、「君の会社にM君という若い人が居るだろう」と言うので、「Mは私共の常務ですが」と答えると、「彼が復員して来た時、学校に世話した事がある」と話して呉れたので、これは大変と急遽会社のM常務をお呼びする事にした。 かつて私が新入社員の頃、社員寮を訪れて、「柳田を辞めさせろ」と玄関口で叫んだ人物である。 招待状を持って会社の秘書室を訪れると、秘書室長が出て来て、「常務は社員なら誰の結婚式にでもという訳ではない」と、けんもほろろな答が返って来た。 ムッと来た私は、「私だって、お呼びしたくてする訳じゃ無い」と言って訳を話すとやっと取次いで呉れた。 M常務は懐かしがって、「Kさんのお孫さんの結婚式じゃ出ない訳にも行かない」と言って呉れたので助かった。

結婚した当初は彼女の実家の傍の白金のマンションに住んだ。 結婚したばかりの頃、私はそれ迄ろくな物を食べていなかったので、夕飯にに茄子の鴫焼きが出ただけで、嬉しかった。 私の好物のあんかけ豆腐も覚えて貰い幸せの一時だった。 その時私は中学三年生の時のスキー旅行の時の事を思い出していた。 一緒に参加した同級生の中にEというやけに大人びた哲学的なのが居て、「この世に条理なんて無いんだよな」と呟きながら麻雀を打っていたので、麻雀の出来ない私は傍で聞いていて、「なんて難しい事を言う奴だな」と思っていた矢先に、そのEが私に向って口を開き、「柳田は絶対女で失敗する」と言ったのである。 私はそのEの言葉をその時思い出して、「やっと失敗しないで済んだ」と、胸を撫で下ろしていたのである。  程なくして、母が成城に戻る様に言うので、成城の私が育った家の一階に住む事になった。二階には私に割り込まれた為に少し後に結婚した年子の兄夫婦が住んだ。 成城に戻るとやがて、私達二人は家との葛藤の渦に巻き込まれて行った。 彼女は母に気に入られていたので、私としては非常に助かったが、長兄の家族がハワイに行っていた事もあり、すぐ上の兄のお嫁さんは特に最初の内はすぐに標的にされた。 一度は女房と二人で母を慰労しようと、多摩川迄ドライブした事もあった。 しかし母が多摩川の土手で、「こんな事して貰ってもちっとも嬉しく無いのよ」と言ったので、それ以来無駄な努力はしないで、二人で趣味に専念する事にした。 母は、母の日に子供にエプロンを貰っても「彼方はもっと私に働けと言うの」と言う位の人なので、慣れてはいたが、その時はさすがの私も白けた位であるので、幾ら仲が良かったとは言え、他所の家で育った女房はもっと驚いたに違いない。 つい先頃も、「貴女という人は、子供の幸せを先ず考えるという事はないのですか」と聞いたら、「ない」とはっきり答えたから、きっといつしか、人の好意とか思いやりが理解出来くなってしまったのだろう。  その頃から母は画廊の経営を始め、父は独り寂しく取り残されている事が多くなった。 私が、父と少しでも話が出来るようにと、野鳥の会に入り、庭に巣箱を掛けたり、自然科学関係の本を読みあさっていたのもこの頃である。 私達夫婦は休みになる度に、山中湖にあった女房の実家の別荘に泊まりに行き、釣りをしたり、別荘の近くの泉にバード・ウォッチングに行って、鳥の写真を撮ったりして、出来る限り煩雑な事から離れよう離れようと努めていた。 母が画廊を始めると女房も手伝わされる事が多くなっり、何かと言うとかり出された。 女房は何でも器用にこなす女なので非常に重宝され、画廊に手伝いに来ていた女の子とも、後に私がハワイ転勤になり、私に少し遅れてハワイに出発する迄の間は要領良く立ち回っていた。 たまには少し立ち入り過ぎてしまい、母といがみ合う事も無かった訳では無いが、全てそつ無くこなしていた。 気丈に立ち回ってくれる女房には本当に助かった。 税の申告すら器用にこなし、私は何もする事が無いと言っても過言では無かった。 表面上は恙無く過ぎて行っていたとは言え、母との関係は、両親の関係がぎくしゃくする度に、悪くなって行ったのである。

北海道旅行

ハワイに転勤になる少し前に二人で道東を旅行した事があった。 当時、東急百貨店では、北海道の北見市にデパートをオープンする計画があったので、その頃すっかりバード・ウォッチングにはまり込んでいた私は家の葛藤から逃れる良いチャンスだと、密かに東京脱出を計画していたのである。 この旅行は言わば私の視察旅行を兼ねていたのである。  商事部の、ジャパン・エアシステムの前身である日本国内航空の担当者にお願いして、夏休み中で、なかなか確保出来ない釧路迄の往復航空券を取って貰い、釧路からレンタカーで根室、納沙布岬を周り、釧路湿原で丹頂鶴の写真を撮ったり、納沙布岬から水晶島を望遠鏡で見て、ソ連の船の上の歩哨に立っている兵隊が見えたと言えば喜び、土産屋で飼われているオウムが、「島を返せ」と叫べば大笑いするという、久々に二人だけで、家のごたごたからも解放され、自由な気分を味わった楽しい旅行だった。  中でも、厚岸から少し行った所に霧多布という岬があり、その手前の浜中という所にムツゴロウの本にも登場する民宿のWさんというのが居て、私達もそこに泊まったのだが、八月末にも拘わらず、ストーブを焚く位寒い所で、舟で近くのケンボッキ島という小島に連れて行って貰ったりして、番屋の脇でWさんの作業が終わる迄のんびりと過ごしたり、帰る頃には泊まっていた他のお客さんとも打ち解けてすっかり仲良くなって最高な場所だったのである。 岬にはそこにしか生息しない、エトピリカとかケイマフリとかアイヌの名前が付いた鳥がいて最高の被写体であり、Wさんの舟から300ミリの望遠で撮ったその二種類の鳥の写真を額装して後から民宿に送った位気持の安らいだ実に良い旅だったのである。 北海道から帰ってから少ししてから、北見市とは気温の差が三十度もあるハワイに転勤が決まったのである。

辞令が下りる

ハワイ転勤の内示があり正式な辞令が下りると、私は準備を始めた。 その頃、母は私達が逃げようとしているのを察知したのか、事ある毎に、「貯金は幾ら有るの」とか金銭にまつわる質問をする様になって来た。 出発前の準備の段階で、私は女房に私達の経済にまつわる諸々の書類を金庫にしまい、日本を出る様に指示を出していた。 その中には私が女房に言って、彼女が登記所に出向いて取って来てあった、実家の土地の登記簿の写しも入っていた。 それは、母がその頃から兄弟の気を引くのに、相続の事をちらつかせ、全員が結婚して、それぞれに配偶者が出来た四人の仲を割こうとする発言が目立ち始めたので、私が内容を把握しておく為に、念の為取らせておいたものだった。 ところが二人ともハワイに行ってしまった後で、予想もしない出来事が起ってしまったのである。 それは、社会保険の関係か何かで、出向者は一応日本に籍を置いている事に事務手続き上なっていたので、毎月某の金額を会社に支払い続ける事になっていて。 二人がハワイに行って大分経ってから、会社から七十万円位を支払うよう連絡が入ったのである。 仕方なく、母に、金庫のコンビネーションを教え、会社にその金額を支払うよう泣く泣く依頼したのだが、その時点で母に私達の財産状況を全て把握されてしまったと観念したのであった。 私が何故こんなに迄して私達のプライバシーを守ろうとした理由は、母がそれ迄私達宛てに来た手紙も開けてしまうという事を、注意を促し続けていたにも拘わらず一向に気にせず、繰り返しして来たからである。 一度は女房が、郵便配達の人間に、郵便をちゃんと分ける様に言った処、その配達の人間が母に「お宅のお嫁さんがこんな事言ってましたよ」と告げ口されてしまい、家内は母から嫌みを言われた事があったからである。 この時既に私は女房にいつ見放されてもいい位の厭な目に彼女を会わせていたとも言えるのである。 何せ、親族・相続法が専門だった私は、その時既に、子供が出来ないという離婚要件を一つ自分が満たしていたのを知っていたのだ。

ハワイでの事

ハワイに転勤になる

[私が、貿易にいた時、ハワイ・シロキヤと言う海外の子会社が、パールシティというホノルルから少し行った所の町に出店するので、私ともう一人が売り場から選ばれて出向したことがある。私はハワイの店の内情に詳しかったので、余り良い顔をしなかった。 すると、その時の人事の課長は、「ハワイに行けと言われて、有難うございますと言わないのはお前だけだ」と、かなり不満そうだったのを覚えている。 私もその時は、「余り内情を知り過ぎているので、正直言って余り有り難く無い」と言って、一応内示受けさせて貰った。 その後、貿易の課長も同じ様に、「お前大丈夫か」と聞くので、「私は社命を断る程野暮な男ではございません」と答えた、「お前の母ちゃんは」、「自分が行くと言えば、行くに決まっています」と大見えを切った。 それが人生の別れ道になるとは夢にも思わなかった。」

「ハワイで一番嫌だったし、印象に残っているのは、何と言っても、直属の上司から「お前は学卒だから嫌いだ」、「お前は英語を喋るから嫌いだ」と言われた事だろう。 アメリカに居て、「英語を喋るから嫌いだ」はないと思った。 今迄ハワイに行ってノイローゼになった人が何人もいるから、僕なんか幸せな方なんだろうけど、女つくって女房と別れたり、それが原因で家族から総好かん喰って、病人扱いされたりして、立ち直る迄にかなりの時間をロスしてしまった感じである。 お蔭様で良い社会勉強になったけど、リスクもかなり背負ってしまって、まるでトカゲが自分のシッポを切って逃げるみたいな感じで、すごく惨めだった。」

これは、後に私が会社を辞めてから、家に籠っている時書いた文章である。

離婚を決意する

ハワイに転勤になり、始めて夫婦で家の束縛から解放された。 女房は、大学時代の同級生であり、学生時代四年間付き合って、一寸した理由で別れ、五年半後に結婚相手を探している時に、母が「Yちゃんはどうなの」と積極的に勧めるので考え直して結婚したといういきさつがある。 それ迄は、母が見合いの相手を見つけて来て、私が気に入った相手でも、家が小さ過ぎるとか理不尽な理由で勝手に断ってしまったりするので、それ以来母の持って来る話には耳を貸さなかったのである。 長兄が結婚して以来、母の嫁いびりにはうんざりしていたので、母が気に入っている人間が一番良いのではないかと思い結婚を決意したのだ。 始めの内は、兄弟の中で優等生夫婦をして大いに点を稼いでいたのだが、余りにも対外的な事ばかり気を使って、二人の間の絆に余りにも無関心だったのかも知れない。 破局は、ハワイで訪れた。原因は私の浮気である。 それ迄税の申告に至る迄何でもこなしていた女房も英語が得意で無かった為、カルチャーショックを起こした様であった。 アダルト・スクールの日系人の先生と仲良くなり色々吹き込まれてウーマン・リブに目覚めてしまったのである、 私は、日本にいる時には家の事は何もしなかったので、日常の買い物にも全て付き合わされるのが負担だった事もある。 私の方も行った途端に車の修理工場で小切手を騙し取られたり、その工場に単身で怒鳴り込んだりして、苦労が耐えなかった時期でもあった。 二人の間の溝は日増しに深くなって行った。 その上会社では虐められ、歯車が狂って来てしまい、言い訳にもならないが、魔がさしたとしか言い様が無い。 結局関係を修復出来ず成田離婚をしてしまった。 私の人生に於ける最初の危機である。その頃は危機とも思っていなかったが。 国際電話で女房は親父と喧嘩するし、母は社会的自殺行為だと言って怒るし、散々だった。 国際電話で母に「自分の描いている親のイメージは、健康だったら後はどうでも良いから、早く帰って来いと言って呉れる親だ、彼方が自分をいくら追い出しても、自分は地球の何処かで生きて行くから構わないで呉れ」と言った記憶がある。 会社を辞めた時もそうだったが、「私達だって、何回も離婚を考えた事がある、でも思い留まった」、「お父様であって、何回も大学を辞めたいと言った事がある」、「何故そうしなかったのさ」、「彼方が居たからよ」と私等子供のせいにする。 「それじゃあ、子供の居ない俺はどうすれば良いんだ」、それに対する答は無い。 所詮人は、自分の経験の無い事の相談には乗れないものである。

最後の旅行

帰国が決まると、視察旅行を兼ねて、米本土に会社から夫婦二人で行かせてくれた。 ハワイ滞在中に、ハワイ以外の所に出掛けたのはこれが初めてだった。 慶応出身の先輩でもある役員が、プランを練ってくれ、それはそれは凝ったものだった。その人は他の人間からは敬遠され勝ちの人だったが、私にはどういう訳か好意を持ってくれていた。 その当時は私達の夫婦関係は既に壊れていて、話題と言えば離婚の事だけだったが、サラリーマンの辛い所で、会社の命令に逆らって一人で行く訳にも行かず、かと言って恋人を連れて行く事は出来ず、女房にも別れる前にせめてもの償いで米本土を見せて上げたかったし、兎に角複雑な気持だった。  丁度その頃ホノルルからカナダのトロント迄の直行便がスタートし、旅の出発点はトロントだった。 直行便と言っても途中シカゴで乗務員の交代があり、飛び続けていた訳でもなく、御蔭で懐かしのオヘアー空港で少し時間を過ごす事が出来た。 トロントは丁度日曜日で店が閉まっていて、トロント・タワー位しか見る所が無かったので実に退屈した。 トロントからナイアガラ迄はバスで行ったのか記憶がはっきりしない。 ナイアガラの一泊したホテルは滝が正面に見える素晴らしいホテルだった。 夜女房が外で食事をしたいと言い出し、町に出たみたが、田舎町でろくなレストランしか無く、小さなスパゲッティー屋で二人でぎこちなく会話も交わさず食事をした記憶が残っている。 ナイアガラの滝は、私は中学の時に一度見ているので左程感動はしなかったが、女房が初めてだったので、タクシーに乗り傍迄行ってみた。 同じ場所から滝を見ると二十年前の記憶が甦って来て、暫し嫌な思い出を忘れさせて呉れた。 同じ場所と言っても、ナイアガラの滝は、一年に一メートル半後退するそうであるから、前の時とは三十メートルはずれていた計算になる。 きっと私の気持も十四の無邪気な時とは違い、その位のずれが生じていたに違いない。 今も私の心は滝と共にずれ続け、中学生の時から既に五十メートルもずれている計算になる。 ナイアガラの駅で切符を買い、再び列車の旅は始まった。 途中国境で検問があり、パスポートをチェックされアメリカに戻った。 社内では二人で缶ビールを四本ずつ空け、道すがらニューヨークに着く迄の八時間近くを延々と離婚について話した。 シラキュースを通過した時、二十年前は母の運転する車で来た事を思い出し実に懐かしかった。 ニューヨークに到着した頃は、お互いの気持も晴れてさっぱりしていた。 それとも飲み過ぎていたからなのか、話し疲れてくたびれ切っていたからなのかも知れない。  セントラルステーションに近付くと突然の景色の変化に、何故か山手線で御徒町とか上野の近くを通過している錯覚に陥る。 鉄道の旅に慣れない二人が駅でまごまごしていると、黒人の背の高い若者が「ポーター、ポーター」と言いながら近寄って来て、断る暇も無く二人のスーツケースを事も無げに両脇に抱え小走りに出口の方へ行ってしまい慌てた。 タクシー乗り場の前で九ドル九十セントと言って手を出すので、仕方なく十ドル札を渡し、タクシーに乗ると今度は、フィリピン人の運転手が、「何故断らないで金を払うんだ」と言って怒りを表した。 私は、「殴られるよりいいだろ」とその運転手に言いながら、同じアメリカでもハワイとは大違いだなと感じた。 ニューヨークではセントラル・パークに面したサンモリッツ・ホテルという高級ホテルに一泊した。 背の高いビジネスマンばかりで、エレベーターに乗るとラッシュの電車に乗っている小学生みたいな気分だった。 二十年ぶりにエンパイアステートビルディングに上り、自由の女神に上ってもなかなか気分が晴れず困った。 ニューヨークでは一日中メイシー百貨店を始めとするデパートを見て歩いた。 メイシーズの古い木製のエスカレーターが印象的だった。 途中女房のブーツを買うのに付き合ったりして、離婚が決まっていたとは言え、そこ迄四六時中一緒に居ると気持がほぐれて来て、六年近く一緒に居た、学生時代を含めれば十年以上の付き合いのある人間と一緒で、旅は道連れという気分に私もなりつつあった。 ニューヨークからフィラデルフィア迄行き一番古いワナメーカーというデパートを見学した後、郊外の大きなショッピング・センターを視察して回った。 フィラデルフィアからは飛行機で、確か一度テキサスで乗り継ぎをして、ロサンジェルス、サンフランシスコとアメリカ大陸をぐるっとひと回りした様な感じであった。 ロサンジェルスではハリウッド、ビバリーヒルズ、を見物して周り、視察旅行という感じも消え失せてしまった。 サンフランシスコではチャイ・ナタウンで食事したり、ユニオンス・クウェアーで休んだりゴールデン・ゲート・ブリッジのワイヤーの展示の上に跨がったりして記念撮影をしたり、そこで会った日本人の車でその人の経営する店迄連れて行って貰ったりと、完全に観光客になり切ってしまっていた。 思い出せば、離婚という大きな問題を抱えた二人の、視察旅行を兼ねた駆け足旅行ではあったが、結婚してから初めて女房と一番良く話し、一番長く一緒の時間を過ごした感慨深い貴重な道中だった。

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