自伝

イギリス人と同居する

六本木でホステスをしていた二十三歳のJと二十五のHという二人のイギリス人の女の子に一部屋を与え、全く逆の生活をしている彼女達の姿を見ながら本を読んでいたのもこの頃(自分で不動産経営をしていた40代の始め:筆者註)だった。 それは、私がよく通っていた六本木のクラブで、或日横に付いたイギリス人の女の子が私に、「今泊めて貰っている男友達の彼女が今日帰って来るので、アパートを出なくちゃいけないんだ」と言ったので、何の気無しに私が、「一人じゃまずいから、もう一人連れてくれば俺の家に泊めてやる」と、少し酔って居たので言ってしまった事が切っ掛けだった。 その晩店がはねてから、タクシーで二人の泊まっていた練馬のアパート迄行き荷物を取って来てから、三人の奇妙な生活が始まったのである。 最初の晩は、二人を私のダブルベッドに寝かせ、自分は居間のソファーの上で寝て、次の日近所の布団屋で一番安い布団を二組買い与え、二人は幸せそうに見えた。 出来るだけ煩わされない様、六本木迄の詳しい地図も書いやり、送って上げないでもアルバイト先迄二人だけで行ける様にした。 始めの内は、私が近くで飲んでいる時は、待ち合わせて三人でタクシーで帰ったりもしたが、その内私の知り合いが自転車を一台くれ、もう一台は何処かで二人で拾って来て、自転車で通う様になったので助かった。 一度は、一人が、知り合いから貰った方の、登録証が付いた自転車に乗っていて警官に呼び止められ、説明出来なくて警察から電話が来たという事もあった。 私が起きている時間二人は寝ていて、邪魔されなくて丁度良かった。 スーパーでフルーツだとかパンの様な、彼女達が食べられそうな食品を買って置いておくと、夕方起き出して、二人で勝手に食事して出掛けて行った。 自分達が洗濯する時は、必ず私の洗濯物も一緒に洗ってくれ、出かける前は私のベッド・メイキングもして呉れたので実に助かった面もあった。 若い金髪の女の子が、下着だけで家の中をふらふらしていても、日本人と違い色気が無いので困る事も無かった。

面白いもので、或いは偏見かも知れないが、外国人の女性はどことなく人間としての威厳と言うか風格と言うか、日本人と違い、どんな子供でも、年令、職業、出身に拘わらず備えているのには驚かされる事がある。 その二人も、一人のHという子の父親は歯医者で金持ちだそうだったが、Jという後の一人はリバプール出身で、父親は自動車の整備工をしていて、それ迄紅茶等飲んだ事が無かったと言っていた通り、家においてあったトワイニングの紅茶の缶を見て、トゥウィニングと読んだのには恐れ入った。 休みの日は勝手に二人で何処かに遊びに行っていたみたいで、手が掛からない二人だった。 或日、Jが、私の当時運転していた、あの私が一度英国系の企業に就職した時に記念に買った、オースチン・ミニを運転したいと言うので、砧緑地公園迄運転させてやった事があったが、イギリス人と公園の緑がブリティッシュ・レーシング・グリーンと呼ばれている車の色と実に良くマッチして、矢張りミニはイギリスの車であると感じた事もあった。 一度Jが、歯が痛いと言うので歯医者に連れて行った事があり、奥歯を治療して貰い、インレイを詰めて貰っての帰り道着いて来た歯医者の娘のHが、イギリスだったら旅行者には借りの詰め物をして呉れるのに何故日本ではそうしないのだと食って掛かって来た事があり、私が、「それぞれの国で習慣は違うし、ちゃんとした治療が出来たんだからいいじゃないか」と言っても、「私の父親は歯医者だから、私は良く知っているんだ」と頑張って困った事もあった。 もう一方のJも、私の運転が荒いと言って文句を言い、「私の父親は整備工だから分る」と言い募るものだから、私はイギリス人はすぐ何かを教えてくれようとするから困ると常々思って居たので、「お前らの親父がそうでも、お前らは違うだろ」と語気を強めてしまった事もあった。

一度二人が、イギリスでは乗馬をしていたが日本に来て出来なくなった言うので、不動産会社の社長に頼んで、社長の小淵沢の別荘に連れて行って乗馬をさせて上げた事があり、その時Jが寒さで風邪を引き鼻をすすっていたので、歯医者の娘のHが、「鼻をすするのは、イギリスではお行儀が悪いのよ」とその度にいちいち注意するものだから、私もたまらなくなり、「此処は日本だ、日本では鼻をすするのは別に行儀が悪い事ではない」と、言って怒ってしまい、いじけさせてしまった事もあった。 その頃は、二人が、段々慣れて来て、図々しくなって来てしまい、日本に来る前に少しタイに滞在していた時付き合っていたタイ人の彼氏からタイ語で電話は来るわ、私の普段使わない第二電電からの請求書は来るわで、少し厳しくしようとしていた矢先だったので、東京に帰って来てから乗馬の料金を精算した際に、私が厳しく取り立て、ついでに電話代も自分達で負担させようとしたので、Hが嘘をついて、「これはあたしじゃない、彼方でしょ」と言った時、私が、「俺は001しか使わない」と容赦しなかった為、段々気まずい雰囲気になって来てしまった。 そんなこんなで私も段々煩わしくなって来てしまい、或日又同じタイ人から電話が掛かり、私が警告していたにも拘わらず、Hがだらだら長電話をしていたので、「別れた男といつ迄も長電話してるんじゃない」と、まるでその子の親父みたいに怒鳴り付け、その歯医者の娘を連れて来た、リバプールのJが泣きながら必死庇って、「昔彼女が愛していた男なんだから」と言って抗議していたが、取り合わずその日に出て行って貰った。 二人は貰った自転車に乗り、悲しそうな顔をして、名残惜しそうに立ち去った。 何年か経ってから、六本木を歩いていた時、Jとばったり出くわし、あの歯医者の娘のHが別の男と結婚したと聞いて、二人で大笑いした。

教会に行く

その頃から私は姉夫婦の行っていた世田ヶ谷のカトリックの教会に行く様になっていた。 たまには飲屋でホステスをしていた、フィリピーナを連れて行った事もあったが、その時姉が難色を示したのでそれ以後は連れて行くのを辞めた。 イースターの時も同居して居たイギリス人のJとHを連れて行った事があり、その時は神父も話し掛けて来たりして、私はその時、フィリピーナの時とは大違いだなと感じたのである。 店に入ったりするとよく思うのだが、私がフィリピーナを連れて歩いている時とイギリス人と一緒に居る時と扱いが全然違う事がよくあり、カトリック教会でさえこんな調子では他は推して知るべしである。 私は小さい時分からそんなムラ社会的な日本の教会が嫌いだった。

叔母の大学を訪ねた時、学生の祈りの集会に参加させられた事があって、その時感想を聞かれた時でさえ、私は、「宗教と言う物は極個人的な物で、集まって皆でお祈りを捧げれば良いと言う様なそんなに優しい物では無いと思う」と言ってしまった位である。 その時そこに参加してた一人の女子学生が、私が優しいと言った事を受けて、フランス語で、「ジェンティーユ」と表現したので、私はその時、「何だこの気取った馬鹿女は」と、聖堂の中で思ってしまった。

或日いつもの様に教会に行き、帰りにある大学の先生と昼食を姉と二人で御一緒した時があり、その時姉が、「教会は皆が集まるから好きだ」と言ったので、私が、「僕は誰も居ない聖堂で、独りで祈りを捧げるのが好きだ」と言ってしまい、姉が機嫌を悪くするのじゃないかと少し気に掛かったが、その先生が、「私もそう思います」と仰って下さったので救われた。 その先生は、イギリス正教会からカトリックに転向された非常に敬虔なクリスチャンで、その時私が、「私はお祈りはマントラと一緒だと思っているので、お祈りを口語体に変えてしまうのには反対です」と申し上げた時も同意して下さり、私と同じ考えを持っている方も中には居るんだと安心した事もあった。  或時その教会の神父が自分のオートバイを倒し火傷してしまい、ミサを休んだ事があって、次の週のミサで言い訳がましい事を言い、子供っぽく御婦人の信者に同情を求めて媚びる感じがした時があり、ミサが済んでから外に出て皆で話しをしていた時も、「私は六十から乗り始めた」と得意げに言っていたので、私は、「俺なんか四十になった時乗るのをやめたのに、六十になってから六百五十CCに乗れば火傷もするわな」と思って嫌になってしまった事もあった。

最悪だったのは、義理の兄の洗礼式に出た時である。 式が済んでから皆がホールに集まって歓談している時に、教会の世話係りをしていた人が私の所に寄って来て、「貴方は何者ですか」と唐突に言ったのだ。 私は失礼な奴だなと思いながら、「洗礼を受けたMの義理の弟です」と答えたら、その人が続けて、「何処の教会に所属してるのですか」とまるで尋問するかの様に言ったのである。 私はそれ迄教会から離れていたので、「成城教会だと思いますけど、今は何処にも」と答えたのだが、納得して貰えず、「自分で洗礼を受けておいて覚えていないんですか」畳み掛けて来たので、さすがに教会の中ではと思ったには思ったのだが、「幼児洗礼なのに覚えている訳が無いじゃないか」と語気を荒気てしまったのである。 その時は皆、「又芳秋が」という様な顔をして見られてしまって困ったが、たまたまその様子を姪が見ていて、後で弁護してくれたので助かった事もあった。 そんなこんなで、その頃から再び私の教会離れが始まったのである。 日本の教会に行くと、神とは何なんだろうと考えさせられる事がよくあり、ひょっとして教会はその為にあるのかも知れないと、皮肉の一つも言いたくなるのである。

【HOME PAGE】 inserted by FC2 system