文明の衝突

近代文明の仕組

近代文明は非常にロジカルに構築されていて、全ての要素に分解してもいつでもそのロジックにより復元出来る様な仕組みになっている。 従って論理的に要素を識別出来ないと、一度分解したものを元に戻す事が出来ないのである。 心と身体を一度論理上分離する事により人間は科学をここ迄発達させた。 これは逆から言えば、心と身体は離れる事が出来ないという事に通じる。 従って人は常に心と身体が離れたままにならない様に自分を律しなくてはいけない。 近代文明はこのように聖と俗の分離によって全能性の追求をして勝ち得たのである。 日本はこの聖俗分離という近代化無しに現代に至ってしまったのであり、正確には西欧的なモダンとは呼べないのである。

近代文明はその特徴である均質化をもたらした。日本も例外ではない。 日本は逆に近代文明の力によって聖と俗を引離される結果を生んでしまったとも言える。 いつでも個に沈潜或いは収斂して元に戻れる状態にしておいて、一度心と身体を分離して 科学の発達をさせたのが近代文明というものなのである。 この近代文明というものはあく迄も便宜上聖と俗を分離して二元化したのであり、この大前提を忘れてしまうと或いは知らないと非常に危険である。 つまり、科学という分業によって拡がった間口を常に拡がる前の状態にいつでも戻す事が出来るというのが大前提なのである。 これは学問の世界でも言える事であり、間口を拡げるだけ拡げて纏める努力を怠ると目的意識が希薄になってしまうという事なのであり、如何に社会が膨張しようとも出発点は人間の存在というものの追求である事には変わりが無いという事なのである。 日本人はやがて二十一世紀になんなんとする現在に至っても尚この近代文明の仕組みに疎い面が多々見られる。

中世から近代に移行する過程に於て幾多の哲学的思考を経て近代文明は形成されて来た。 これは神の概念に至る迄徹底しているのである。 全能性の追求にしろ普遍性の追求にしろ本来成し遂げる事は不可能である。 この不可能を可能にしようとする試みの過程に於て人間は大きな力を得て来たのである。 これは恰も瞑想する時に唱える真言を意味付けしようとする脳の働きが自己の内面に深く沈潜する事を可能にするという修行の様なものである。  精神科の用語にプロテクトというのがある。 これはトランス状態に入る時に専門家が傍に居て普通の状態に何時でも戻れる様にしておく事を言うらしいが、言わば海に潜る時或いは山に登る時使用する命綱の様なものである。 本来心と身体を一度分離してものを考える事は非常に危険な事であり、常に戻れる様なプロテクトが必要である。 近代文明はロジカルに構築された個から全への循環するシステムであり、個に収斂或いは収束出来るというプロテクトの様なものなのであり、この循環するシステムを知らないと、拡散するばかりで収斂出来ない事になり、ライフスパンの短い個人には到底耐えられずいつかスピンアウトしてしまうのである。 日本人はとかく内面に沈潜する瞑想の様なものは、「東洋の神秘」だとか「心身一如」だとか言って自分達の専売特許の様な顔をしている。 事実はかなり違っていて、西欧では近代化と共に神秘的な部分迄も論理的に分析しシステムの中に組み込んでいたのである。 つまり神の概念に至る迄ロジカルに構築しているのである。 「始めに言葉ありき」という言葉で表されている様にロゴスそのものが既に論理的に分析されていて、言霊とかいう情緒的なものではないのである。  日本は前にも書いたが全体主義にプラグマティズムを取り入れて目覚ましい発展を遂げた。 これは人間がロボットの様に働いたからであり、現代の様に社会が膨張し個人主義、自由主義が行き渡った状況ではなかなか期待出来るものではない。 柳の下に二匹目のどじょうは居ないのである。 日本の様な、プロテクトとしての循環システムを認識しない儘発達して来た社会は、扇の要が欠如しているみたいで拡がるだけ拡がって最小構成単位である個人に兎角不安を与える。 個の確立とか個性の尊重とか表面的に捉えても、個から全への循環という仕組を知らない限り近代文明は理解出来ないのであり、この儘進めば日本人は文明に潰されてしまう恐れすら感じる。 これはプロテクトを掛けないでトランス状態に入る様なもので非常に危険であり。 近代文明はロジックをプロテクトとして構築されており、ロジックこそ扇の要なのである。

エゴのコントロール

エゴのコントロールは人間にとって非常に重要な要素である。 前述した様に、今迄日本人はエゴのコントロールを「世間」の中で他力的に行って来た。 戦後五十余年、日本人は自由を追求し続けた結果「世間」から飛び出しこの大事なエゴのコントロールを失ってバラバラになってしまった。 これは、老若男女の混じりあった「世間」の構造の中で周囲の人間の眼によってエゴを律して来た日本人が、柳田國男の言う「異郷人ばかりが隣り合わせて住む」7 より大きな社会構造の中で、煩わしい縦の人間関係を極端に排除した為なのかも知れない。 今日本人は都会化の波の中で、疎になってしまった人間関係をどうにかして密に戻そうとしているが、このエゴのコントロールが元来苦手な為どうしても傷付け合ってしまう結果をもたらしてしまい勝ちである。 これは山嵐がお互いの温もりを求めて身体を寄せ合うと棘で却って傷付け合ってしまうという、所謂山嵐のジレンマと言われているものであり、精神科の症状である。 今日本人に課せられているのは、今迄他力に頼っていたエゴのコントロールを如何にして自力でコントロール出来るようになるかという事である。

「いずれが喜ばしい変化であり、何がその反対であるかを見究めなければならぬのだが、その方法なり標準なりが、今はまだ明確に立っておらぬのである。」

と、柳田國男が歴史教育について述べる時に、

「日本を世界中で話柄のおそらくは最も乏しい国、会話の最もつまらない国にしたのも、責任はこの歴史教育の限定にないとは言えない。旅は面白いかも知れぬが見て来た者は一人、めったに私も知っているという土地の話はできない。万人共同の興味は毎日の生活だが、老人が見聞を語らず、聴いて印象を保つ若い人々がなかったら、互いに顔を突き合せてわかり切ったことばかりをくどかなければならぬ。だから天気の話がすめばたちまちめいめいの健康を問題にし、少し時間がたつとすぐに人の蔭口になってしまうような、いとわしい社会相が出現するのである。」

と、現代の日本人の人間関係を裏付けする様な事も書いている様に、

今迄表面的な繋がりばかり追い求めていて内面的な繋がりを疎かにしていた日本人は自分を客観視して自我を見つめエゴのコントロールをする術を習っていない。 相対世界だけでエゴをコントロールして来た日本人は、「個」という要素に分解されてしまいコントロールを失うに至ったのである。 これでは人間はお互いの違いばかり見付ける事に終始し、いくら会議を重ねても決まる事も決まらず、会議では不毛な議論を続ける事になるのである。 自己に沈潜して内面から自我を見つめ自己の確立を図らないと、一度失ったコントロールを元に戻すのは難しい。

識別する能力

この世の中情報が氾濫し一歩外に出れば頭の中はカオスであり、毎日の生活は緊張と弛緩の繰り返しの様なものである。 心のレベルでは緊張と弛緩の連続であり、魂のレベルでは束縛と解放の連続の様なものである。 これはマクロ・コスモスが収斂から拡散の連続であるがごとしであり、結局の処、ミクロ・コスモスはマクロ・コスモスの法則で動かされているからに他ならないからである。 人生はXもYも判らない方程式を解いている様なものであり、定理が無ければ自分で創り、公式が無ければ自分で考え出す、つまり如何に自分を納得させるかが大きな問題なのである。 多少時間が掛かろうとも教科書が無ければ自分で作り出すしかない。 個の在り方と国の在り方は必ずしも一致しないが、どこ迄が固有の問題でどこからが普遍的な問題であるかを識別する能力は個人のレベルでも国家のレベルでも要求される。 誰にでも得手不得手がある様に国にもそれぞれ得手不得手があってしかるべきである。 大事なのは前述の固有の問題と普遍的な問題を見極める力である。 日本のオリジナリティーを主張する事は勿論重要である。然し、その前に万国共通の問題つまり普遍的な問題を括り出す事により、日本固有の問題を識別する必要がある。 例えば日本人は時として文化と文明の区別すら出来ないのではないかと思われる節が見受けられる。

柳田國男が日本の社会変化を捉えて、

「それが一方になお古風に固着する家人村人と交りつつ、その言動感情に何か歴史的の意味あることを心づく者の出て来たのは、あるいは日本だけの急激文化の特殊性だったかも知れぬ。国の一致のためにはあるいは多少の割引になるだろうが、それはもう事実だから致し方がない。しかも現状を進めて行けば向うところはおおよそわかっている。再びまた西洋の老いたる国々のように、自身その雰囲気の中に住みながら、これが外来思想でありこれが国民史の産物であることを、はっきりと見別けることのできぬ時代、すなわち苅りしお過ぎになってしまうことと思う。」

と言い、民俗学の重要性を説いていたのも現代を憂えての事だったのである。

これが、西尾幹二氏に、

「ヨーロッパ的なものを拒絶して、純粋に日本的なものを守ろうとする立場は、やはり一種の抽象論である。ヨーロッパの方程式の網の目からもれたものだけを拾い出し、そこに民俗的に不易なものをさぐろうとする柳田国男流の在り方も、西洋の普遍主義に対抗するため、日本をより広い普遍的なものの中に仮説的に置く岡倉天心以来のアジア主義も、いずれもこうした精神の在り方が防衛的な姿勢をもつ限り、いつしかその防衛が絶対化し、防衛であることが忘れられ、積極的概念になっていく傾向を孕んでいる。」

と言わしめる原因でもある。

日本固有の精神性を護る為に日本固有の真善美を再構築しようとした柳田國男の試みも、意に反して、日本の文化を近代文明の均質化の下にさらけ出すという、柳田には耐えられない自己矛盾を孕んでいる事を、彼は既に察知していたとも言える。 文明が文化のレベルを超える、或いは文化が文明に同調しない、この現象は多かれ少なかれ何処の国でも見られる。どんなに小さな社会にでも、極端に言えば何処の家庭にでも固有の文化は存在するという事である。 それを乗り越えられるものは、精神性(善・美)を統御する真即ち真理の探究姿勢しかない。 近代文明は均質化をもたらすが、必ずしも文化と競合するとは限らない。 どこ迄が均質化によるものなのかどこからが西欧化によるものなのかを峻別せず、情緒的になり、短絡的にナショナリズムに傾くのは本末転倒であり、論理的に全ての要素を整理し識別出来る能力が要求される。 元々文明はインターナショナルなものであり、文化はナショナルなものなのであり、文明が文化を超え、それと共に文化も文明に同調する、これこそ国際と言うのに相応しいのである。 これはまさしく普遍性の追求姿勢から生じると言っても過言ではない。

「文明の衝突」の中で、サミュエル・ハンチントン氏が、

「このように近代社会には共通する部分がたくさんある。だが、こうした社会は必然的に融合して均質化するものだろうか?均質化するという主張の根拠となるのは、近代社会は一つのタイプ、すなわち西欧タイプに近づくはずであり、また近代文明とは西欧文明であり、西欧文明こそ近代文明だとする仮設である。だが、両者をこのように同一視するのはなったく誤った見方だ。西欧文明は八世紀から九世紀にあらわれ、その後の数世紀に独自の特徴を発展させた。だが、十七世紀から十八世紀にいたるまで、まったく近代化しなかった。西欧は近代化するはるか以前から西欧だったのだ。西欧文明を他の文明と分けている主な特徴は、西欧が近代化される以前に形成されていたことである。」

と述べている様に、近代文明即西欧文明と解釈するのが短絡的過ぎると同じに、愛国主義と国粋主義の違いも識別出来ず、護憲と改憲の問題にしろ短絡的に軍国主義復活と言ってアナクロニスティックになったり逆にノスタルジーに浸ったりするのは時代逆行的である。 例えば西欧と言えば即キリスト教と言って退け、その背景に在る哲学的な考察すら無視し、宗教教育を語らせれば、超越的或いは絶対者つまり神の概念を「畏敬の念」と表現してしまう、これでは超越的な認識は或いは高次の認識はいつ迄経っても得られるべくも無い。神の概念は何等畏れるべき対象ではないのである。 日本は今、近代文明のもたらす均質化だけを峻別する能力を養い、徒に西欧の文化を追い掛けるのをやめ、どこ迄が借用文化であり、どこからが独自の文化であるかを識別し、独自の教科書を自分達の力で作り上げる時期に直面している。 特異体質とは言わば風土病の様なものであり、風土病は現地に行かなければ治す事が出来ないとも言われている。特異体質の治療法は外国の教科書には載っていないのである。 先に筆者が和魂洋才をCPUとDOSの関係の様であると述べたが、近代文明のもたらす均質化はまるでコンピューター・ウイルスの様でもある。

サミュエル・ハンチントン氏も前掲の書の中で、

「西欧のウイルスは一度他の社会に入りこむと、消すことは難しい。西欧ウイルスは生きつづけるが致命的ではなく、患者は生き残るが、完全にはなおらない。政治指導者は歴史をつくれるが、歴史から逃げることはできない。彼らは引き裂かれた国家はつくるが、西欧社会はつくらない。自分の国を文化的な分裂状態に置き、それが国を定義する特徴となって維持されていくのだ。」

と述べている様に、近代文明の特性である均質化の波はコンピューター・ウイルスの様に一度入り込むと鼠算式に拡がりあっと言う間に社会を被い尽くしてしまう勢いである。 筆者がプロテクトと言うのはさしずめウイルスに対するワクチンといったところであろうか。 ウイルスに対する免疫を得る為には、その毒性から血清を作る必要があり、筆者が日本の特異体質を治す為には先ず近代文明の基本を学ぶ事から始めなければならないと強調する理由でもあり、毒を制するに毒を以てすと言われる様に近代文明のもたらす利便性に目を奪われて危険性に気が付かないとウイルスに感染してしまうのである。 その意味に於て日本人は余りにも無批判に近代文明を取り入れてしまったとも言え、早く免疫力を身に付けて清濁合わせ飲める体質にする必要がある。 それには無批判に海外の学説に従うでもなく、逆に民俗学に解決の緒を求めるのでもない、新たに近代文明に対応する為の日本人に依る日本人の為の独自の教科書を作り、日本の文化を守る為にも客観的に又積極的に近代文明を研究する姿勢が求められるのである。 日本人にとって日本の文化を守る事は当然の事として、均質化の波に日本の文化が消えて行くのを憂い極端にナショナリスティックになるのでなく、オリジナルな日本の近代を追究する姿勢、それが却って日本の文化を守る事にも繋がるのである。

日本の特異体質は輸入の学問では解決は出来ない、そうかと言って、

「本で外国の理論を読むことも参考にはなるが、それが果して我々の場合に、きっちりと当てはまるかどうかはまた一つの問題である。ことに政策の模倣ということは、日本の新文化の最も醜陋なる一側面であって、近い過去の経験を回顧してみても、まぐれ当りにも当ったものが半分には足りない。どうしてもその他の半ば以上が脆くも挫折し去り、または流弊ばかりを後に遺しているかというと、言わば輸入学説の適用が精確でなかったからで、本当はうわべばかりの猿真似だったからである。かりにも文明国と名のつく国で、日本ほど自ら知らなかった国は少ないだろう。」(中略)

「今日は個人の自由だの平等だのを説きながら、なお依然として実地を省みない概括論を押し通そうとするのである。やがて馬脚を露わすにきまっている。」

と言う、柳田國男の提唱した「新国学」としての「民俗学」でも対応は出来ないのである。

その理由は既に述べた様に、近代文明の危険性或は毒性に対する免疫を得る為には、純日本的なものにその対応策を見い出す事は出来ず、流入して来る近代文明の毒性から血清を抽出する必要があり、それも風土病は現地でしか治せないと言う様に、日本で独自に開発する必要があるという事である。 社会科学に関しては、自然科学と違い外国の教科書に載っている事を直接取り入れる事は出来ない。「内省」が不得手である事と相まって、こんなところにも日本に於ける社会科学の遅れの原因が垣間見られるのである。

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