ポストモダン

ニューヨーク・ワールド・トレード・センターテロ事件が教えるもの

今回のニューヨーク・ワールド・トレード・センターテロ事件を境に、人類はポストモダンのエートスを真剣に考えるべき時期に突入してしまった。下記は、私が、「ポストモダンのエートスを求めて」というテーマの下に書き綴ったものの一部であり、個人主義の観点から日米を比較したものであり、この時点では未だ、国家の在り方よりも個人の在り方に重点が置かれたコンテクストになっているが、今回のテロ以来の米国の態度を見る限りでは、最早、個人主義が安定しているとは言い難く、近代文明の危険性をもろに露呈する結果を招いている。これを機会に真の普遍性の追求をしたいものである。


個の行方

今迄日本の見本であり続けたアメリカは非常に好戦的な国である。 民主主義を守る為に世界の警察として日夜戦い続けているのであると言わんばかりに振る舞っている。まるでスーパーマンの台詞みたいである。 そのアメリカは自由を追求する余り世界中から移民を集め人種の坩堝と化している。 然し乍ら民主主義を守り通そうとする力には驚くべきものがあり、如何に国が暴れようとも国民個人個人は自由主義、個人主義を守り通して安定している。 これも自由を守る為の危険負担の原則が徹底しているからか、それとも個から全への循環システムがプロテクトとして働いているからか見上げたものである。 これぞまさに主権在民であり、真の民主主義と言える。 元々国民あっての国家であり、どちらが主でどちらが客かの問題である。 それに比べて日本はまるで逆の状態であり、国は一見非常に平和であるが国民一人一人は不安感に苛まれている。これこそ主客転倒と言うべきものである。 これは単に国は平和で個人は不安であるのと国は乱れても個人は平安であるの二者択一の問題なのだろうか。

国民一人一人のエゴのコントロールが出来ていれば国の政策も決まり易いが、それが無いと日本の国会の答弁の様に欺瞞的で不毛になり、政策一つ決めるのに常に手間取る結果を招く。 つまり、国のエゴは国益を守る為の国策となり、国民のエゴは利己主義となるのである。 残念乍ら、未だに戦争での殺戮は結果的に許されている状態であるが、今後は国と国とのエゴが益々取り沙汰される時代になると思われ、日本が一国家として諸外国と対等に付き合う為には、日本人も必然的に自力でするエゴのコントロールを余儀無くされるのである。 日本も国際化の波は防げず規制緩和の方向へ進んでおり、これから国民は増々自由競争の波にさらされる事になる。 先頃のリストラの問題にしろ、対策として安易に首を切るという現象が起こり、今迄本来実態の無い会社に忠誠を誓いをそれを守る為に一生懸命働いて来た社員を解雇するという本末転倒の様な状況になってしまっている。 一時は海外からも注目されていた終身雇用制は脆くも崩れ去ろうとしている。 今回の日本の企業に於けるリストラが所謂米国に於けるハイリスク・ハイリターンの自由競争によるものかどうか定かでないが、いずれにせよムラ社会神話の崩壊がすぐそこ迄来ている事は言える。 ここでも日本人のSafety &Securityに対しての無防備さが浮き彫りになって来る。

本来社会も会社も個人の集まりから成り立っている。 何の為の社会か何の為の会社か今一度考え直し、本末転倒、主客転倒を避け、日本独自の解決策が見い出せないものだろうか、それとも均質化の波に押されてしまうのだろうか。 この儘進めば日本人は無防備の儘、国にも守られず社会にも守られないで泣き面に蜂であり、早急に個の確立を急ぎ、自分で自分を守るという国際社会の基本を身に付けないと、踏んだり蹴ったりという状態は避けられない。 果して日本の個の行方は如何に、という切実な問題なのである。 然し、これは逆から言えば柳田國男の言う、自己内部省察の良いチャンスとも言える。 この事は、現在の我が国の立場を観察していれば判る事であり、個人も然りである。 人間は八方塞がり、或いは四面楚歌になった時こそが、チャンスなのであり、それは、外面に拡がれない時には、内面に入り込む事しか出来ないからなのである。 これが、柳田國男の言う、「内省」という物なのである。

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