ポストモダン

拡大再生産の限界

僕がこ21世紀の世界は「ヒューマニズムとナチュラリズムのハーモニズムである」なんて、理念だけ先走っていたのが、今回のテロ事件お呼びそれに引き続くアメリカの対応を見ていて、只の絵に描いた餅で無くなって来たのを感じた。 「ポストモダンのエートスを求めて」というテーマで論文をしたためていた頃、「資源枯渇と言うニヒリスティックな要素を孕んで」という表現をしていたが、今回のテロ事件の根本的な問題はアラビアの原油に対するアメリカの利権であり、結局代替エネルギーが見付かるまでは原油に対する利権が重要であり、その為には戦争もいとわないというのが現実のようである。

ひょっとして世界は、20世紀型自由経済社会の限界に到達してしまったのではないのか? 口では盛んに、持続可能な文明とか循環型社会の創造とか言っていても、未だに20世紀型社会を踏襲しているではないか、20世紀にはみな口々に「21世紀には、21世紀には」と御題目のように唱えていたのが、じっさいに21世紀に突入してしまった途端に、その先に控えている100年の長さに気が付いてパタッと止んでしまったみたいである。つまり、社会は個人のライフサイクルとは必ずしもシンクロナイズしていないって事なんで、自分の生きている間にドラスティックな変革なんか期待出来そうもないからなんじゃないか。 僕は近代経済学の一番の弱点は「拡大再生産」だと思っていて、ソニーの盛田さんが「自社製品を自社製品で陳腐化するっきゃない」と豪語していた位、拡大再生産と言うものは常に前に進んで居なくてはならなく、つまり前年割れしては本来ならない仕組みになっていて、そこにたまたま居合わせた社員は割食ってしまうという事です。 結局社内の人事考課だって社員の競争意識を微妙に煽って成績を上げるように出来ている。社員が競争しなくなったら駄目だという事なのです。 「景気のいい時には、全て順調に推移して、あたかも自分の実力がアップしたような錯覚にとらわれて、物事が単純計算的動くように思えるけど、不況になると、全てがうまく行かなくなって何でも悪い事は他人のせいにする、これじゃ元を正せば結局景気のいい時だって、うまく行ってた訳じゃないかも知れないじゃないか」と僕が昔書いた様に、結局は個人の資質如何で動く様なシンプルな社会では無いと言う事で、個人の御都合なんてお構い無しに動いているって事です。現にあのテロ事件が生々しい内は恰も悲しみをシェア−している様にお祭り騒ぎしているけど、たまたまそこに居合わせて被害に遭った人達は他の事件や事故の犠牲者と何等変わりは無いのである。実際は国のエゴが個人のエゴに優先して働いてああ言った悲惨な事件を惹起したって事なんじゃないか。

マイクロソフト社が公正取引委員会によって分社するように言われたように、一国が強くなり過ぎる事自体独占禁止法に触れないものなのか、冷戦時代の終焉と共に世界の力バランスが変わり、世界の警察を自負するアメリカを牽制する要素は無化してしまっていて、今では世界の国会は与党だけで動いている様にも見える。 以前日本株式会社と揶揄されたように現在はアメリカ国家自体が巨大コングロマリット化してはいないのか。 聞く所に拠ると、アメリカはニクソンが金兌換を止めてからも相変わらず金を買い求め、いつでも兌換性に戻せる準備をしているとも言う。つまり、一国のエゴの為に世界を動かそうとしているからに他ならないのだ。 需要創造というものは、以前味の素がビンの振り出し口の穴を大きくする事で解決したようには簡単では無く、アメリカのように、カジノ資本主義を創造し、世界の金がニューヨークを通過するようにしたり、世界の警察を自負し、自作自演のシナリオを作り戦争を引き起こしたりして、需要を創造する位でないと難しく、結局国を挙げての産めよ増やせよじゃないと難しいという事で、日本では拡大再生産の最たる出生率が下がった事自体国民のエネルギーが下がったみたいなもんで、以前同じニューヨークでマンハッタン一帯が停電になり、一時的に出生率が上がった事があったが、なんでも鼠算的に増えるという神話が崩壊してしまったのだと思う。 最大の景気昂揚策が戦争では人間の叡智もここ迄かと言う位余りにも原始的で悲しすぎるのではないだろうか。 それとも僕が以前「人類に救いはあるか」というエッセイで、「集団としての人類に救いは無く、救いは個人のみにある」と結論したみたいに、今回のテロ事件で犠牲にあった個人の魂は救われるけれど、国家としてのアメリカは救い様がないと言う事なのだろうか。

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