自伝

不動産屋になる

土地売却の話が持ち上がった時、丁度私の家を建てる為に出入りしていた業者が、事業用資産の建替えという制度を利用すれば税金が先送りになる、という情報を呉れた。 というのは柳田が成城学園と共に昭和二年に移り住んだ時は、学校が一坪七円で買い、それを父兄に十四円で販売して、学園建設の資金の足しにしたという話であり、税金は購入価格と販売価格との差額に掛かって来て大変な事になってしまうとの事だった。 幸いな事に裏庭に建っていた、あの思い出深いアパートが共有名義で、その中に私の名前もあったのである。 にわか成り金になった私は、当時仲良くして貰っていた、高校時代の友人で画家をしていたYに相談し、彼のパリに居た時からの知り合いで、不動産会社を経営しているW氏を紹介して貰い、その会社の社員にして貰った。 不動産の知識も無かった私は、土地を売った資金を社長に預け彼に全てを委ね、一時はその会社から貰う給料で生活していたのだ。 その頃私は、自分でも不動産管理の有限会社を設立する事に決め、同時に自分が会社を辞めた時に計画していた美術品も扱う事も出来る様に定款にもその旨謳って会社を設立した。 会社の名称はその不動産会社に途中から加わっていたNという社員が提案してくれた、柳田が経営する会社と、幕府という意味の柳営を掛けて「柳営舎」にする事にした。 最後の一字の「舎」は、母の当時経営していた、「緑蔭小舎」という会社の手伝いもしたいと考えていたので、そこから頂いた。 父親にその話をすると、「柳営舎」という名称は右翼っぽいからいけないと、予想外に反対していたが、そのまま無視した。 設立当初は、何もする事が無く、当時知り合いの会社が扱い始めた、いんちき臭い発毛剤迄扱ったりしていた。 顧客は私の同級生の父親で、当時父の洋服を作っていたテイラーの社長一人だけだった。 やがて、その発毛剤を販売していた静岡の自動車会社が倒産してしまったので、私は多量のいんちき発毛剤の在庫を抱える事になってしまった。

自分の会社を設立してから一度、私が、私の好きだったレプリカ販売と、絵の展示も出来るサロンを敷地内に作る企画を立て、その時出入りしていた建築業者に設計図迄書いて貰い、母に見せると、その場所が建築中の私の家の前の道路寄りの林のようになっていた場所だったので、その林は父が亡くなる迄絶対に切ってはならないと怒り、私の立てた企画は林を利用した木立の中のサロンをイメージしたものの積りだったのだが、その計画は敢え無くダウンしてしまった。 折角母との共同事業も出来るかと思って設立した会社も、その時から自分の不動産だけを管理するペイパー・カンパニーに成り下がってしまった。 今では売ってしまって他人の物になってしまったが、自分で自分のマンションの建設に関わり、マンション経営の難しさ、自分のそれに対する適性の無さをまざまざ感じさせられた時代であった。

 

その頃のいきさつは、件の小冊子にも書いているので、そのまま紹介させて頂きたい。 何と言っても、私の自分探しの旅の始まりは、矢張りこの冊子にあるのだから。

信ずること

「私は幼児洗礼を受けたカトリックであり、物心ついた時は母に連れられて教会に行っていた。  小学生の頃はよく教会に通ったものだが、何となくムラ社会的な日本の教会が合わず、段々に疎遠になった行った。 然し乍ら、幼児洗礼と言うものは不思議なもので、聖書は読んだ事が無くても、何か離れられない、逃れられない何かがそこにある。 これは結局、小さい頃に公教要理で、神父から話を叩き込まれ、三つ子の魂百迄もで、年と共に色濃く出て来たようであると、最近は思う様になった。  離婚した後、人生の歯車が狂って来て色々悩み、社会にミスフィットになって来た時、しがらみを一つ一つ切って行き、孤独感を味わう事が多くなって来た。 私は隠れ切支丹と言って、家にマリア像を置き、一人でカトリックを続けていた。十五年間勤めた東急百貨店を辞め、その後半年間家で悩んだ時でさえ、私はカトリックであると言う理由で、本屋に行った時でも、精神世界のコーナーだけは素通りしていたものだった。  その後学校時代の友人の紹介で、或不動産会社にお世話になり、今から思えば劇的な出会いだったにも拘わらず、自分一人で自分の適性を考えていたものだった。 流通業出身の自分に不動産業は合わず、一年半後に私は、英国系の会社に就職するに至るのだが、私はその時、自分は悩みから抜け出られたと思い非常に喜び、店長会議で、女性の店長を相手に、「売り上げの事ばかり考え悩んで居ないで、たまには屋上に上がるなり、公園に行くなりして、空の広さを見て、自分の何と小さい事よと思いなさい。」とか「会社が何をして呉れるじゃなく、自分が会社に何が出来るかだ。」とか偉そうに言っていたものだが、結局私が自分の適性を長年勤めた小売業に求めたのが間違っていたらしく、半年で行き詰ってしまった。」

「用事もあったので、以前一年半だけお世話になった不動産会社の社長に、アイデンティティーも必要なので、生業を何か考えて欲しいとお願いしたところ、数日後、出版はどうかという話が出て、自分も出版については考えた事が無い訳でも無いので再考する事にした。  その二日後、彼から電話があり、彼も出版には興味があるので、十二月二日から二週間ヨーロッパに視察に行く事に急遽決まった。 暮にツアーでヨーロッパに行こうと思っていた私にとっては願っても無い話だった。  このヨーロッパ旅行程感激した、印象に残った旅は未だかつて味わった事が無かった。 この同行して頂いた社長もカトリックであり、同い年で、私が小さい頃通っていた教会の神父に可愛がられていた人間だったのである。 最初友人を介してお世話になった時は、そんな事も知らなかった訳で、世間は狭いと言うよりも、縁は異なものと言う事を強く味わったものである。  私が今回のヨーロッパ旅行で感じた事は、少なくともヨーロッパの人達は、バックグランドに宗教心、クリスチャニティーというものが深く根付いていて、個人が常に神と対峙している感じがしたのである。つまり彼等は放っておいても、或程度の善悪の判断を神との関係に於いて行っているのであり、個体として機能している感じがし、これぞまさに個人主義という感じなのであった。  今回の旅は行く先々で、共時性と言うか、シンクロニシティーと言うか、偶然は無いと言う感じで非常に充実していた。 宗教と言う事を抜きにしても、我々日本人は信ずる事そのものが、多少少ない様な感じがして仕方が無い。」

当時自分が書いたものを読むと、純粋だった頃の自分を思い出して、非常に懐かしく感じられる。 その後色々学び、一言でヨーロッパと言っても、自分の知っているヨーロッパなんか、極一部分である事が判るし、テレビで紛争等を観ていても、宗教或いはイデオロギーを超えるのが如何に難しいか身につまされる。  その時の旅行で、私がパリのホテルに泊まっていた時に、或晩食事でもしようと何処か良い和食のレストランでも無いかなと思いながら道を一人で歩いていると、三メートル位後ろを同じ方向に歩いていた一人の金髪のドイツ人みたいな青年が私に声を掛けて来た事があった。 彼は私を中国人だったと思ったらしく、「何処かに良い中華料理屋を知らないか」と私に言っので、私は、「私は中国人では無いので判らない、貴方が日本のレストランを見付けてくれたら、私が中華料理屋を見付けて上げましょう」と答えた。 その後暫く二人で無言のまま、二人の間の距離も縮める事無くそのまま歩き続けていると、一軒のベトナム料理屋が私の目に入ったので、彼に、「ベトナムなら中国と日本の中間みたいなものだから、宜しかったらそこで一緒に食事しませんか」と勝手な理由を付けて誘ってみたのである。 彼もそのアイディアが気にいったみたいで、二人でそのベトナム料理屋で食事をする事にし、そこでお互いに自己紹介をして、甘ったるい春巻きの小さい様な料理を、両方ともベトナム料理を食べるのは初めてだったので、どちらかと言うと私の国の方がベトナムに近かったので、私が適当に説明しながら味わったのだ。

彼は、MSという名前のスイスの化学者でカトリックであり、イタリア人の奥様とスイスのルガーナという所に住んでいて、スイスの研究所で水質汚染の研究をしている人で、丁度その時にパリで行われていた学会に参加する為にスイスからパリに来たばかりだという事が判った。 MSは、「研究者には自由が無くて、上から何を研究せよと命令されるだけだ」と、その前に私がイタリアに居た時に、フィレンツェの洗礼堂で会った大阪の大学のN先生と同じ事を言った。 彼は続けて、「ドナウ川は幾つもの国にまたがって流れているので、上流に毒を流せば沢山の国の人間が死ぬ事になるから、その研究は非常に大切なのだ」とか、「日本も水質汚染の研究は盛んだ」とか、私の知らない興味深い事を熱心に私に話してくれ、食事の終わる頃にはすっかり打ち解けてしまい、次の日も、彼の学会が終わってから待ち合わせて、私を案内してくれる事になったのである。

私は訓練の為にとその時同行してくれた社長に放ぽり出されていたので、願っても無いとばかりに彼に案内をお願いする事にし、次の日待ち合わせて、そこから一緒にシャンゼリゼ迄歩いて行きそこのカフェでコーヒーを飲んだりして、私がそのカフェの隣にあった、日本の「虎や」を見付けて、ミニ羊羹のセットを買って、「奥様へ差し上げて下さい」と差し出すと、「ワイフは食べるかな」と言いながら、店で羊羹を入れて呉れた小さなショッピング・バッグを私に渡そうとしたので、「これは有名なショッピングバッグで、日本では中身よりもパッケージが大事なんだ」と冗談を言って無理矢理持たせ、帰りは地下鉄の乗り方を教えて貰ったりしながら帰って来たりした。 MSがその次の日も案内してくれると言ったので、お言葉に甘える事にして、次の日は、奇跡の教会とかエトランジェ・ミッションに連れて行って貰った。

そのエトランジェ・ミッションの前に日本のシスターが一人立っていたのをMSが見付け私に、「同じ日本人だから挨拶して来い」と言ったので、私が、「日本人なら世界中何処にだって居るだろう」と躊躇していると、彼は空を指差して、「偶然は無いんだから、兎に角挨拶して来い」と言うもんで、私も仕方なくそのシスターに挨拶したのだが、そのシスターに私が「どちらのシスターですか」と伺うと、「東京の白百合です」とお答になったもので、私もびっくりして、「私の叔母も白百合のシスターです」と申し上げると、「お名前は」と仰ったので、「Oと申しますが」と答えると、「O先生には御世話になった事がありますと」言われたので、私は再度びっくりしてしまい、MSにその事を告げると、MSが再び空を指差して、「だから偶然は無いって言っただろ」と嬉しそうな顔をして私を見たのである。 その後日本に帰ってから、私は真先に離婚以来母から阻止されてお会いする事が出来なかった白百合大学の叔母を訪ねその一部始終報告して、久々に会った叔母の顔を見て思わず涙してしまったのである。

再度独りになる

M子が家を出て行って、暫くして私は独りのアメリカ人の女性に出会った。 私の中学からの同級生で画家になった、私を不動産会社のW社長に紹介してくれた、Yの絵のモデルだったスペイン人を、実家のアパートの部屋に只で住まわせて上げた事があり、その子が連れて来て一緒にそこに同居していた友達である。 仕事も無く、彼女も居なくなった私は、一度新宿でその子と自然食のレストランで食事をした事があり、その時は変な物を食う奴だな位にしか思っていなかったのだが、その時私の着けていたコロンが自分の兄さんが着けていたのと同じで、兄さんと一緒に居る感じだと言って、それからちょくちょく私の家を訪ねて来て、散らかし放題の部屋を掃除してくれる様になったのである。 その時の私は、掃除をしている彼女の傍らでソファーに寝そべって、「金髪の女性が俺の部屋を掃除しているなんて、日本人も出世したものだな」と勝手な事を考えていただけなのだが、或日彼女が身の上話を始め、自分の境遇に付いて語り始めて我に帰ったのである。

彼女はニューヨーク州の北部のセイラムの出身で、お婆さんは魔女で、いつも裏庭でハーブを育てていて、自分の父親はその血を継いで一種の狂気であって、自分も父親にそっくりな額であり、本来は男の顔であり、二人のお兄さんはベトナム戦争から帰ってから社会に馴染めずおかしくなり、列車強盗をして、FBIに追われていて、父親の葬式もFBIが取り囲んでいて、近付いて来れず、花束だけが何処かから届いた、と言うなり泣き出してしまったのである。 私はその時、身体の中を嵐が吹き荒れ、吹き抜けて行く凄まじい気持に襲われたのである。 これは以前M子と暮していた時に、彼女から衝撃の告白をされて以来、私にとって二度目の体験だった。

或日彼女は私にオイルマッサージをしてくれると言って、スペイン人のモデルの子と二人で、私の足をマッサージして呉れた事があった。 元々私は自分の身体を他人に触られるのが嫌いなので、少し我慢してから、やんわりとお断わりしたが、その時初めて、「ヒーリング」だとか「チャネリング」とか言う、所謂ニュー・エイジ・サイエンスの言葉を耳にしたのである。 その時以来私達は、精神的な問題について語り合う事が多くなり、会えばいつもお互いの悩みを語り合う様になったのである。  そんな或日私がいつもの様に彼女に自分の話を聴いて貰っていた時、彼女が突然おかしくなり、声色が変って、「私は彼方を助けに此処に遣わされたのだ」と言ったので、私が初めての経験に余程驚いた顔をしたらしく、普段の彼女に戻ってしまい、彼女も誤摩化してしまったので、それっきりになってしまった。 大分経って彼女も何処かに居なくなってから、日本でもニュー・エイジ・サイエンスについて色々見聞きする様になり、「ああ、あれがチャネリングと言う物だったんだ」と気が付いたのである。 その時はセイラムでは昔、本当に魔女裁判が行われていた事すら知らなかったのである。

その子は本当に不思議な子で、私の父が庭で落ち葉を集めていれば、ゴミ袋を持って自分も一緒になって落ち葉を集めて手伝ったり、私の両親の評判も良く実に頼もしい人物だった。 それに反して、一緒に居たスペイン人は訳の分らない変った子だった。  或日、私の会社にアメリカ人の子が電話して来て、相棒のスペイン人の子が、一緒に朝食を食べている時、ケチャップを買いに行くと言って出たまま帰って来ないと言うのである。 私は、事故にでも遭ったのかと心配して、消防署の救急隊とか警察に連絡して色々探したのだがどうしても見つからない、その時ふと気が付いて、そう言えば警察に連絡した時、電話に出た警官が、「違う名前の、他の国の人間なら保護しているけれど、スペイン人は居ない」と言ったのを突然思い出し、その名前と国籍が私の一度会った事がある、その二人の子の共通の友人の背の高い女性のものである事に気付いたのである。 私は再び警察に電話を掛け、その保護している外国人は背が高いかどうか確認すると、小柄な女性だと言ったのでその時始めて、そのスペイン人の子が、何かしでかした事に気付いたのである。 私が、何をして保護されたのかを訊ねると、その時電話に出た刑事が、「英語が得意な人間が居ないので、何を言っているのか良く判らないけど、駅前の食料品店でケチャップを万引きして捕まって突き出された」、「外国人は下手に扱えないから困っている」と答えたのでやっと見付けられた事があった。 私はその時余りの出来事に慌ててしまい、電話に出た刑事に、「家にいる子に限ってそんな事をする人間は居ない」と言ってしまい、後で家に帰ると、刑事が私の母に平謝りに謝っていて、事情を聞いてみると、アメリカ人の子が心配の余り私の母にも同じ事を訴えた為、母も私と同じ様に探し回り、警察で見付けて私と同じ事をその刑事に言ったものだから、刑事の方が逆に心配になって飛んで来た処だったのである。  後でその子が、「私は謝ったのだから罪は赦された」と言い張って反省の色が無いので、丁度その時来ていたその子のボーイフレンドと、「君のしたのは我々は犯罪と言って、いくら謝ったからと言って、罪は許されない」とこんこんと説明したのだが、一向に理解を示さず、涙を溜めながら最後迄認めようとしなかった。 その時私は、キリスト教の国の人間は罪に対する考え方がそれ程違っているのかと思い愕然としたものである。

ニュー・エイジ・サイエンスに凝る

一時ニュー・エイジ・サイエンスに凝っていた事がある。 その時は気が付かなかったが、どうも一時実の家のアパートに居たあのアメリカ人の女の子に、「気」を吹き込まれてしまったみたいである。 その頃、「パラダイム・シフト」という言葉が流行っていて、私も数冊読んだ事があり、その時初めて所謂トランス・パーソナル的な世界の事を知ったのである。 私はカトリックなので、それでもオカルティックな事は避けて通りたかった。 その当時は未だルネサンスの事にも興味を持つに至っていなかったので、キリスト教も昔はかなりオカルティックだった事すら私は知らなかったのである。 そういった関係の書物は兎角頭を混乱させるだけなので、私はあくまでも自分の頭だけで考えようと或時それを全て姉に回してしまった為、よく思い出せないが、最初に読んだのは、その頃シリーズで出たフランスのシンポジウムでの講演内容が書かれた本だったと記憶している。 今でも姉と話す度に姉が、「あの時貰った本の御蔭で、世界が拡がった」と言う位すっかりお株を奪われてしまった感じである。 どちらかと言うと、そういった関係は概して男よりも女の方が得意みたいである。 沖縄のシャーマンが皆女性な事を思えば至極当り前である。

最初のシリーズ本は、日本からも著名な先生方が出席された学術会議についての本であるので、内容が難しすぎてチンプンカンプンだったのを覚えている。 続いて私は、取り敢えずマズローの『人間性の心理学』位だったら読んでも大丈夫だろうと思い買って読んでみたのだが、それでも未だ左程興味は湧いて来なかった。 そんな或日、たまたま実家に出向いた際にに、そこで、昔母から英語を習っていた事があった、今は亡き著名な俳優さんの御子息とお会いしたのだ。 色々話している内に、たまたま私が意識せずに、「こうしてお会いするのも偶然ではないですよね」と彼に言ったのだが、その時彼が、「ひょっとして芳秋さんは、トランス・パーソナルの方に御興味がおありですか」と私に聞いたのである。 その時は「ええ、少し本を読んだ程度です」と答えたが、「偶然」というキー・ワードによって会話がすっかり盛り上がり、「次回それでは御一緒させて頂きます」とその日はそれで別れた。 その後で、シャーリー・マックレーンの『アウト・オン・ア・リム』という本を皮切りに当時出版されていた本を読んでみたが、それでも未だ私は、学術書の方が私には向いていると思っていたのである。  それから一度、チャネリングに一緒に参加した事があったが、どうも集団催眠の様で、私の性に会わないのでその時ものめり込む程には至らなかった。 その頃流行っていた本で『バシャール』というのがあって、当時私はそのチャネラーがイタリア系みたいだったので、冗談で、「イタコだから丁度いいや」と言っていた位だから知れたもんであった。

その後不動産会社に就職した後で、そこの社員の一人が私に、「柳田さん、これからは仕事は何をやったら良いと思いますか」と聞くので、私はその時、「こんな右も左も分らない世の中では、占いしか無い」と答えた。 聞くとその男は占い学校に通っていると言い、話して行く内に、その頃流行っていた自己啓発セミナーにも参加している事も判り、その男も又、『バシャール』に凝っている事も判った。 一度その男に誘われて、ヴィジョン心理学というセミナーに参加した事があった。 それは、ベトナム戦争の帰還兵を社会復帰させる為に開発されたものらしかった。 カリフォルニアから来た夫婦共に心理学者をしている先生を呼んで行うセミナーだが、いつも熱狂的な信者に囲まれて面白いのだがどうもやらせ臭い。 後でその私を誘った男に問い詰めた処、やっと白状したのでどこ迄が本当でどこからがやらせなのか未だにわからずじまいである。

その後その心理学者の弟子を名乗る人間が続出し、真面目に研究していた人間は本場のアメリカに移住してしまったりした様だが、一度私も大変な目に会った事がある。 それからも少しの間、件の男が紹介した、自己啓発セミナーに参加してみたりしていたのだが、教祖気取りの野郎が女を侍らせて、前世で一緒だったとか言っちゃ女に近付き、どうも薄気味悪くていけなかった。 決定的に私を離れさせたのはその後すぐである。 或独立したばかりのセミナーの主催者が開催したセミナーを、その件の男が手伝っていて、私に人数が足りないので参加して欲しいと頼んで来たのである。 大体一回のセミナーに五万円位取っていたので、詐偽まがいであるが、友人のよしみと言う事で参加する事にしたの迄はいいが、会場に行ってみると、その件の男とそいつの彼女を含む数人が、前に用意されたテーブルにまるで審査員の様に並んでいたのである。

その時のセミナーのタイトルは「表現」と付けられ、主催者のセールスマン風情の男が講師になって、私を含む数名の参加者に対して、表現の仕方をとうとうと説明するという形式で始められたのだが、私が実に下らないと思っていた矢先、その講師が参加者に対して、動物なら何でも良いから表現してみる様に指示したのである。 その日たまたま寝不足だった私は突然切れて立ち上がり、「人にやらせる前にお前が先にやってみな」とその講師に向って言ったのである。 その途端その講師はまずいと思ったのか、「セミナーの内容を変更して、柳田さんの御意見について、皆さんと話し合いたいと思います」と言って、セミナーは討論会に変わり、私は数十人の参加者に取り囲まれてしまったのであった。 それからが大変だった、「五万円も取って、親切ごかしに参加者に、動物の真似をさせる奴が何処に居る」と私が猛然と抗議すると、突然参加者全員が私を責め始めたのである。 私は、「こういうのは討論会とは言わないで、リンチと言うんだ」と言って、「議論なら得意だから受けてやる」と大見えを切ったのだが、それでも納まらない。 その時、「そんなに判っているなら、来なければいいじゃないか」と言った若い奴が居て、私は件の男を指して、「Nが、数が足りないと言うから、出てやったのになんて事を言う」と怒鳴り、「偉そうな顔をしてそこにちんまり座ってないで、真中に出て来て動物の真似でもやってみろ」と件の男に言ったのである。  その後、私は余りにも下らないので帰る事にしたのだが、その主催者が別室で話し合いたいと聞かないので、少しの間別室で話し合ったのだが埒が開かない、しまいにその男が、「頂いた金は返しますから、どうぞお引き取り下さい」と言うので、私は。「一度払った金を返せと言う程俺は野暮な男じゃない」と言い残しそこから立ち去ったのである。 出口の外迄追い掛けて来て引き止めようとする人間も中には居たが、私の気持は二度と戻る事は無かったのである。 それから数日してからも、そこの参加者の女性から夜電話があり、如何にも悟った様な事ばかり並べ立てるので閉口した事もあった。 それ以来私は、「いくら前世で結婚してても、現世で一発出来るとは限らない」と言う様にしている。つい何年か前もその残党みたいな女性に会って、しきりに彼女がライアル・ワトソンの『百一匹目の猿』の話をし、運命論を唱えるものだから、「運命だったら放っておけばいいじゃないか、運命というものは、必ず来るものなんだろ」と言った事があった。 その後その人の仲間の一人が、私にリーダーになって欲しいと言ったとか言わなかったとかいう話も伝わって来た。

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