自伝

W社長

その会社のW社長も変った経歴の持ち主だった、建設会社を営む敬虔なカトリックの父親を持ち、高校は暁星高校に進み、東大に入学して学園紛争の時は新宿西口交番前のあの投石事件にも加わり、神父になる為にフランスのソルボンヌ大学に留学し、そこで書き終わったばかりの卒業論文を自動車ごと盗まれてしまい一時はゴミ箱に捨ててないか探し回ったと私に話して呉れた事があり、パリに居た時に付き合っていた女性が神経衰弱になり、その為に彼女との悲しい別れを余儀無くされたと聞いた事もあった位、数奇な運命を辿った人である。

面白い事に、お会いしてから次々に判って来たのだが、小さい頃私が通っていた教会の神父に可愛がられていた事に始まり、私の成城の実家で私の上二人の兄と姉の勉強部屋を増築した際その神父から紹介された建設会社がW社長の父親の会社だったり、又私が慶応大学に入学したばかりに、一時籍所属していた、「カトリック詠唱会」という同好会で参加した合宿の時宿泊した信濃町の或会館で世話掛かりしていたのがW社長だったり、その上、その同好会の新入生歓迎会で子供の国に行った時にお会いした女性とW社長がフランス時代に付き合っていて悲しい別れをした方だったりと、偶然が重なり、私が一度W社長に車の中で、「親からの不当な扱いについて幾ら他人に話しても、すぐ「愛の鞭よ」とか、「可愛い子には旅をさせよと言うでしょう」とか、在り来たりの反応しか返って来ないから嫌だ」と訴えた時も、「僕もそう思う」と、珍しく同意してくれたり、厳しい中に優しさが感じられ彼に対して私は、何故か凄い親近感を覚えていたのである。

親の援助を悉く排除し、わざわざ敷かれていたレールから飛び出して、ゼロから始められる精神力には甘ったれて暮して来た自分には、私と同い年とは思えない、想像も及ばない力を感じていたものだった。 彼の頭の切れもさすが東大という感じで、私の扱える倍以上の要素を頭の中だけで見事に組み立て、結論を導き出して只結論するに留まらず、尚且つその強じんな精神力で決断して行く姿はまさに驚愕に値するものであった。 又彼の辿って来た道もさる事ながら、経験して来た事も普通の人間では想像出来ない程のすさまじさであった。 傷心のまま帰国してからは、彼は一時、赤坂でポーカーゲームの店をやっていた事もあったと言い、その時手入れを受け、その時以来ポーカーゲームは得意だと、歌舞伎町のポーカーゲーム屋で実演して見せて呉れた時は、その力の凄さに只々びっくりするだけだった。 彼はコンピューターに勝つと言って続けざまに三台の機械を征服し、手に札束を握って帰る事何かは朝飯前の事の様に、傍でぽかんと口を開けて見ていただけの自分には映ったのである。 たまには私も試した事があったが、二三分もすると金を使い切ってしまい、そこに用意されていた無料の飲み物とお菓子を食べながらW社長のしているのを脇で見ているか、ソファーで居眠りをしていた。 運が良く勝ち続けた時等は、三十万位ポンとお小遣いにくれた事もあった。 私と言えば、その金をハワイに居た時、自分の店の前のバーで働いていたRという女の子が自動車事故を起こした時の費用にと送ってやったり、彼女が日本に来たいと言った時の旅費の足しに上げたりするのに使わせて頂いていたのである。

不動産会社を立ち上げたばかりによく使っていたという、台湾人の経営するデート・クラブに社員全員を連れていてくれた事も何回かあった。 それでも自分は女性と遊ぶ事は一切しなかった。 会社設立の頃は近隣対策一つとっても、暴力団との関わり無しには済まなかった事も話して呉れた。 暴力団に拉致された部下を助ける為に組の事務所に現金を持って乗り込み組長に直談判して、日本刀を突き付けられて失禁している部下を救った事もあったとも言っていた。 その内、彼等が近隣協会という組織を設立したから理事になってくれと言われたが断ったと笑ってはなしてくれた事もあった。

或時いつもの様にW社長が皆を連れて、件のデート・クラブに行った事があった。 一人ずつ自分の気に入った子を連れ出して、ホテルに入った迄は良かったのだが、社員の一人が女の子にその場で金を要求され、いつもつけにして会社に請求書を送って貰っていると、幾ら説明してもその台湾人の女の子が理解して呉れないと、困り果てて私の居た部屋に電話して来た事があった。 仕方が無いので私は素裸の上に備え付けてあったガウンをはおり、代りに説明したがそれでも納得しない様なので、クラブのママにその場で電話を入れさせ、やっと納得して二人で自分達の部屋に戻って行った事もあった。 そのトラブルのあった翌日の新聞に、そのデート・クラブの経営者のRとパートナーの男が詐欺罪で逮捕されたという記事が載っていて、それ以来そこに行く事も無くなった。

或時、取引先のT建設のS社長が、アメリカにに投資物件を購入したいとの事で、ハワイとロサンジェルスに私も同行した事があった。 そのS社長はワイン好きの方で、ハワイ島で宿泊していたマウナケア・リゾート・ホテルのレストランでワインを頼みたいと仰って、色々うんちくを傾けられて、いざ御所望のワインが出て来たのだが、余りに高級で古いワインだったのか、そこの管理が悪かったのか定かで無いが、そこに居た女性のソムリエがコルクを抜こうとした時、そのコルクが乾燥していたらしく途中で折れてしまったのである。 そのソムリエは赤面してしまい、どうして良いか分らなくてまごついていたので、私がそのソムリエに、「どうしたら良いか教えて上げようか」と言うと、「教えて」と答えたので、私が、「指でコルクを突っ込むのさ」と言ってあげたら、そのソムリエはやっと救われたという顔をして、奥に引っ込みワインをデカンターに入れ替えて嬉しそうな顔をして戻って来て、三人ががコルクの屑の混じったワインを飲まされた時があり、私は元々ワインのうんちくを傾ける人間が余り好きじゃなかったのと、ハワイみたいな田舎のホテルのレストランで気取っている人が余り好きじゃなかったので、先が思い遣られると思っていた矢先、その後でホノルルに戻って来てから、S社長が今度は、女が欲しいと言い出して、それなら私もこう見えても昔とった杵柄だからとワイキキに行って日本人の子を拾って来て、わざわざ道端で待たせておいて、S社長の部屋に連絡をして報告したにも拘わらず、ホテルから出て来てその女を見るなり煮え切らない態度で何も言わずにいなくなってしまい、その女の子にも悪い事をしてしまい、さすがの私も腹に耐えかねてW社長に苦情を申し立ててしまったのだが、そこ迄は遊びみたいなものだったので、「変な奴」で済んでいたのだが、その次に行った、目的地のロサンジェルスのマリナ・デル・レイが最悪だったのである。

物件を見に行った迄は良かったのであるが、S社長が私にああ言えこう言えと言うのは仕事だから、私も納得したのだが、如何にも自分も英語が解るという事を見せたくて仕方が無い様で、私が通訳する度に横やりを入れて来て話が前に進まず、通訳をしている者にとっては最悪な状況だったのである。 それが済むと、今度は私に、ああせいだのこうせいだの色々口喧しく言って来たものだから、私が切れてしまい、S社長に向って、「私はW社長に雇われているので、貴方の秘書でも通訳でもガイドでもない、私の通訳が気に入らなければご自分でおやりになったら良いじゃないですか」と言ってしまったのである。 その時はさすがのW社長も部下の暴言に当惑されて、そのミーティングの後ホテルに帰ってから、S社長が寝てしまうのを待って、二人でそのホテルのバーに行き、そこで夜中迄酒を飲みながら、W社長から、「幾ら威張った人でもお得意様の社長に対して、あの態度は無いだろう」と小言を言われたり、私も負けずに、ハワイでの事を訴えたりして、次の日の朝の会議迄に意見の調整を行ったのである。

やっとW社長にも納得して貰い、私も、仕事だと割り切って次の日の会議に臨む事を約束して、二人とも部屋に戻ったのだが、部屋に着くとW社長が私に、「久し振りに女でも呼んでみるか」と言ったので、私も、「それじゃあ、ロスの市場調査でもしましょうか」と言って、部屋にあったイエロー・ページでエスコート・サービスのページを見ながら、その内の三軒に電話を掛け、W社長にふざけて、「三箇所から合見積もりを取ったところ、電話は皆同じ所に繋がるという事がわかりました」と、仕事風に報告し、結局寝たのは朝の四時になってしまった事もあった。

その時にも後迄語り継がれていた面白い話があって、私は何とかやって来た女の子と事務的に事を済ませ支払いも済ませて女の子も帰したのだが、W社長の部屋に入った女の子が泣きながら私の部屋に来て、「お客さんが何もしないで眠っちゃった」と訴えたので、私はいつもの事なので、「ああ、彼は只横に居れば良いんだよ」と言ったのだが、その女の子が納得しないので、W社長の部屋に着いて行って見ると、「私が努力した証拠を残す為にゴムだけは着けておいた」と彼女が言ったので、私は思わず苦笑してしまったのである。 結局時間が来る迄その女の子と二人で、ルームサービスでカクテルを注文し、何も知らないで尻を出したまま熟睡しているW社長の横で、語り明かす事になってしまった。 私は、その時の女の子が教えて呉れたセブン・セブンという、シーグラム・セブンとセブン・アップのハイボールは今でも好きである。 次の日の朝、私の部屋にW社長が血相を変えて飛び込んで来て、「小便が出ない」と言った時は、二人で腹を抱えて大笑いしてしまった。 その時の話は、W社長も楽しかったのか暫くの間、思い出すと笑って話していた。 W社長もフランスで苦労されていた時、住んでいたアパートが売春婦も一緒に居た様な場所で、いつかW社長に、私がハワイに居た頃、字も書けないアイダホの女の子を大事にしていた話をすると、共感して呉れた事もあった。

成城の家を貸す

会社を辞めて不動産会社にお世話になっていた頃、不動産の販売だけだと社員がだらけてしまうので、賃貸部門を強化しようという事になった。 丁度その頃、会社の近所に家を借りていた、グラフィックデザイン会社を御主人が経営されていた奥様が会社を訪れ、代々木上原に借りている家を出なくちゃならないので適当な物件を探してくれと依頼された。 彼女の希望する三十万の予算では当時環状七号線の内側にはそれ程良い物件は無かったのである。 御案内した物件も段々澁谷区から遠ざかり世田ヶ谷、杉並方面が多くなって来てしまっていた。 色々御案内して回ったが、予算内では気に入られる物件が無く、丁度成城の近所を通り掛かった時、「それじゃ参考迄に、お茶がてら私の住んでいる家を御覧に入れますよ」と何気なく言ったのである。 その時私は、その方が乗り気になるとは思ってもみなかった。 その方は、「彼方が住んでいても無駄だから出なさいよ、私が住むから」と、お茶を飲みながら言ったのである。 当初私は自分の住んで居た家は五十万位では貸す事が出来ると見積もっていたので、予算の関係もあるから考えさせて欲しいと、即断は出来ない旨を伝え、結論は後日に持ち越す事でその場は済んだ。 その頃私は自分自身を成城の様な家賃が高い場所に住む身分では無いと思う様になっていたので、私は母にその事を伝え、家を四十万で貸してその半分の家賃で自分は別の場所を探すからと言った。 母も私からは家賃が入らないので、差額の二十万は魅力的だったのだと思う。 結局自分の家をその方にお貸しする事に決まり、私は豪徳寺の一軒家で、その半分の家賃の物件を見付けそこに引っ越す事になったのである。 そこの家の大屋さんに交渉して駐車場代も込みにして貰い、契約も無事終了した。

不動産の仕事

入社した当初は、社長の一族が所有するビルの二階に事務所があり、私は株式の勉強をする様に命じられた。 その頃社長は、不動産で儲けた資金を投資に回したいと考えていただけで無く、節税対策としての利益隠しを図っていて、商品相場の研究等をしきりに行っていた時期である。 一時は、商品取り引きをしている会社に出向いて、両建てで先物取り引きをし、利益を次の年度に繰り越す事等を真剣に教えて貰ったりもした。 自分自身でも、東急を辞めた時売った株の資金を注ぎ込んで試してみた事があったが、気が小さい私には、投機的な事はどうも苦手で、その立場も長くは続かなかった。

その頃、成城の実家でも相続対策の為に、家を移築してその後地にマンションを建設する計画が出て来た。 世話になっている会社で、自分のマンションも建設する事になっていた私は、当然の様に相談に乗った。 その事を社長に相談し、社長が等価交換の企画を作成し母に提出した。 当時は私は、担当では無かったので内容は知らされていなかったので後から知らされたのだが、母はその等価交換というのが気に入らなかったのである。 母は社長が、成城の権利の一部を自分の物にしようと企んでいるんだと、私を激しく非難した。 私もその時は一瞬そうかと思った位である。 社長としては、一種住専の土地に三階建てのマンションを建てても飲食店を入れる訳にも行かず採算的に無理があり、たとえ、事務所として貸しても相続の時点で売ろうとしても居抜きになってしまい、底地の値段だけになってしまうと判断したからである。 私はその当時は社長に任せ切りで、成城の土地に将来的に中庭を囲むマンションを順繰に建設して行き、親が居なくなってから兄弟が皆各々区分所有して仲良く出来る様な、今から考えれば、夢物語の様な構想を描いていただけなのである。

そうこうしている内に、あるクライアントの所有する近所のビルに移転する事が決まり、本格的に業務の拡張を図る事になった。 そのビルは、港区のある商店の息子さんの父親が突然亡くなり、百億近く相続してしまい途方に呉れて泣き付いて来た時社長が相談に乗り、五億の相続税を三億に減らして浮いた分を一億貰おうと考えた時の物件である。 立場は私と似ているが、規模が桁違いな話だった。 結局その坊やの猜疑心が深まり、最終的には決裂し、その坊やも遊び狂った挙げ句弁護士に騙され、相続税も払えなくなってしまい行方不明になってしまった。 社長が、若くして大金を掴むとろくな事が無いので、自分の会社の社員にして、仕事を覚えさせ、将来ビルのオーナーとして自分で管理が出来る様になる迄面倒を見ようという親心は最後迄理解されずに終わってしまった。 社長の主張していた、「自分がいなければ五億払わなければならない、それが三億になるのだから、一億位くれても当然である、自分だって一億は得をするじゃないか」、という理窟は受け入れられなかったのである。

私は最初企画開発部長という肩書きを貰い、不動産関係は素人なので、不動産関係の本を買いあさり、駅ビルのテナント・ミックスの勉強をし、実際の業務にも参加する様になって行った。 始めた時は少なかった社員の数も段々に増えて行き、内輪もめも目立つ様になって行った。 社長が会社を始めた時にパートナーだった人物と、その後参加した人間の、ナンバーツー争いがメインの問題であった。 その後から参加したやり手の営業部長は段々に上の階に居た私達企画部門を兎角疎ましく思っていた。 自分達の稼いだ金を、社長の一存で勝手に使っていると言うのが理由だった。 私を紹介してくれた中学、高校の同級生だった画家のYは人事部長になり、白いベンツを与えられ特別扱いをされていて、自分でもその立場が気に入っている様子だった。 そんな事もやり手の営業部長にとっては嫌でたまらなかった様である。 社長の思惑としては、彼に俗世間をもっと勉強して貰い、彼の絵にその頃欠いていたエネルギーが出て来ればとの親心だったのである。 私も彼が個展を始めたばかりの頃丁度写真に凝っていたので、彼の絵を見て、「ここが変だ」とか「人物の腰が浮いている」とか「アングルが魚眼レンズで見た様な感じでおかしい」とか勝手なコメントを付けさせて貰っていたが、双方四十にもなると、なかなか屈託無い意見は言えなくなっていたので、社長の意見に実に同感だったのである。 社長とその画家はパリの性の倒錯者が集まるクラブで画家が女装していた時に会ったと言われている位なので、当時は他の人間が間に入り込む余地が無い程であった。 そこに自分で紹介したとは言え、私が入社し、同じカトリック教会に通っていたという事が切っ掛けでその社長と段々に近しくなって行くのが、感受性の強い画家の彼としては気に入らなかった様でもあった。 時には嫉妬心をあからさまに見せた事もあった。 従って、肩書きも私より上である事を必要以上に主張していた。 そういった様々な確執の中、社長が下した結論が、以前のパートナーだった人間を別会社の社長に据えるというものだった。 その時に出来たのが、先に書いた賃貸部門である。

そこの社長になった人物は、おっっとりした気さくで大人しい人間で、国税庁の取り調べ室でも高校野球のラジオを聴いていた位のんびりした人で、当時我々は彼を国税庁担当役員と呼んでいた。 その内に北区の王子附近の地上げの話が持ち上がり、私も当然参画する様に求められた。 或日担当者に同行して、ある年輩の御婦人の家を訪ね、そこの土地を手放してビルを建て、そこに住めば便利になるし、良い事尽くめであるかの様な担当者の説明に、老人は、柳行李の中から一通の土地の借用証書を取り出し、我々に見せながらしみじみと、「私は、静かに此処で死にたいのよね」と言ったのである。 その時私は、地上げという仕事、ひいては不動産業が自分に向いていない事をつくづく覚ったのである。 その時から私は、成城の美形の地形の土地を切り売りした母を、当時流行っていた地上げと逆をする、「地下げ屋」と呼び出したのである。 それ以後も、母は土地を売り続け、最後は私に建ててくれた家の部分迄何とか売ろうと画策していたが、私が再度反対を表示し、そこに丁度私の持ち分が五坪あったので、母も諦めたみたいである。 私はその五坪の土地を、「私の尖閣諸島」と呼んでいる。 その土地こそ、祖父が隠居所を建て、『海上の道』を纏め、最期に息を引き取った大事な場所なのである。

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