自伝

画家のYの事

私を不動産会社のW社長に紹介してくれるた、私の中学、高校の同級生で画家になったYは、私が、家を追い出されて所沢に居た時に、澁谷の東急百貨店本店をその時付き合っていた私の彼女と歩いていた時に、パリから戻ったばかりの彼に偶然再会し、それ以後その頃親から勘当されていた私の、親代わりの様に面倒を看てくれた人間である。 高校時代は彼が余りにも進んでいたので、私は一緒に遊んで貰えず、彼がパリに長居して今浦島になったYは、私には丁度良くなっていたのだ。 同窓会の通知も卒業以来住所を転々としていた私の為に、Y方と名簿に入れて貰った程の恩人でもある。 所沢にも度々遊びに来てくれて、二人で所沢の街を歩くと、二人の歩き方すら周囲の景色には何かそぐわずに、違和感が漂っていた記憶が今でも鮮やかに蘇る。 私が、コンクリートの壁の中に居ると息が詰まると言えば、自分の百号もある大作を貸してくれた事もあった。 又、私が東急百貨店の商事部で苦労していた時も、仏事のお返しをわざわざ私の所から買ってくれた事もあった。 特注のゴルフクラブを私を通して、買ってくれた時に、私が問屋に怒鳴った思い出もある。 彼はその大手スポーツ用品会社の社長とも懇意にしていた人間だったので、わざわざそのメーカーで特注しようとして、私が張り切り過ぎてしまったから起ってしまったハプニングだった。

母が、「喜談書屋」と呼ばれていた祖父の書斎の場所で経営していた、「緑蔭小舎」という画廊を閉める時も、その頃画廊を手伝っていた私の企画した記念展覧会に仲間を募って快く協力してくれた、私の数少ない貴重な友人であり、その展覧会の時は、彼の仲間の一人が、私の母の横暴なやり方に怒って駅前の飲屋で私と喧嘩になってしまった事もあった。 不動産会社で一緒に仕事させて貰った時に、多少の確執が無かった訳では無いが、それでもずっと私の友人であり続けて呉れた、私にとっては貴重な存在なのである。 私も自分の事にかまけていて、彼のお父上が亡くなった事も気付かず、不義理をしてしまい、現在は何故か疎遠になってしまって、それが今も私の心に引っ掛かっているのである。 誰は置いても彼だけは失いたくなかったと今でも事ある毎にYの事を思い出す。 色々摩擦も無かった訳では無いが、永久の絶口になる様な事は一つも心当たりが無いのである。 御実家に電話を入れ母上に、「最近Tちゃんが遊んでくれないんですけど」と伺った事もあった。 直接本人に電話した事もあったが、その度に「今度な」と言ってそれっきりなのである。 先日も、麹町にある、高校の先輩の会社の手伝いをしている時に、近所に事務所があった、かつて慶応外語の夏期講習を一緒に参加した、中学、高校、大学の同級生のMから連絡があり、近々Yの個展があるから一緒に行かないか、と誘ってくれたので、やっと気に掛かっていたYに会えると楽しみにしていたのだが、当日になってもMから何も言って来なかったので、私からは恐くてMに問い合わせる事さえ出来なかったのである。 こういった事があると、私は必ず、又母が何か余計な事をYに言ったのではないかと疑ってしまい、姉から、「絶対そんな事無いわよ」と言われ、母に対する猜疑心の固まりの自分を恥じる事もある。 それは、私の母が、私と疎遠になると決まって、私の知らない内に私の友人に電話して情報を引き出そうとした嫌な思い出が蘇って来るからである。 願わくばそうでない事を祈るばかりである。 人生で、何が心残りかと訊ねられれば、私は「Yの事」ときっぱり言える程の私にとっては大事な人間なのである。

泥棒に入られる

私は、一時建築中の自分のマンションの家賃収入が入って来る迄、裏金を生活の足しにしていた事があり、金庫の中から裏金の束を一つずつ封を切り、そこから少しずつ持ち出しては、新宿の歌舞伎町にあった、台湾クラブや、フィリピンクラブに足げに通っていた事があった。 丁度その頃、家に泥棒に入られた事があって、私が慌てて警察に電話し、警官が着いた時に家の中が余りに散らかって居たので、驚いて、「わあ、凄く荒らされましたね」と言ったので、私が、「これは、私が散らかしたのです」と言って、きまり悪思いをした事があった。 幸い部屋が散らかって居たので泥棒も同情したのか、その時は何も取らずに出て行って呉れたみたいだったので、警官が、「これは、家宅侵入未遂で処理しましょう」と言った。 その時警官が私に、「現金は置いて無かったのですか」と訊ねたので、「二階の金庫に入ってたんですけど、泥棒もまさか私が大金を持っているとは思えなかったんでしょう」と言って、二人で大笑いした。 その一年後にも同じ手口で縁側のアルミサッシの窓を割って泥棒に入られた事があり、その時はテーブルの上にドル紙幣が散乱していたのに手が付けられていなかったので、前の年の事を思い出し、今度は私の方から前の時の事を話して、「何も取られていないみたいですから、家宅侵入未遂未遂で処理して下さい」と言った迄は良かったのだが、その後少し経って、イタリアの皮革製品の会社を一月で辞める事になり、最後の日位新調したばかりのスーツを着て行こうと思って、二階の寝室のワードローブを見るとそのスーツだけが無かったので、「さすが泥棒だけあって良い物がすぐ分るんだ」と感心したと同時に、少し気味が悪かったので、再び警察に電話を入れたが、電話に出た警官に、「ああいった物は出て来ない事が多いですけど、一応調書に追加しておきましょう」と素っ気ない返事をされてしまった。

Jの思い出

私が会社を辞め、不動産会社に居た頃、東急百貨店の英会話クラスで御世話になったOという先輩の女性が、私の嫁さんにと御自分の姪子さんを紹介してくれた事があった。 話を聞こうとお家に伺うと、和服を着た、私にはそぐわない位若くて綺麗な姪子さんの写真を見せてくれながら、そのお嬢さんが親御さんと会わなくて手を焼いて居るから、遊び人の柳田さんなら話が合うと思ってとOさんは話してくれた。 私はその姪子さんが、私の通っていた麻布高校の近くにある東京女学館の高校を出て、ある音楽大学の短大を卒業したピアニストだと知って、興味を持ってしまった。 その頃Oさんは御兄弟で所有されていたマンションの仲介を私に任せてくれたりして、私が東急を辞めた後も仕事を回して下さったりして私とOさんの付き合いは続いていたのだ。  それなら私もと、数日後杉並のMさんという、そのお嬢さんの自宅を訪問したのだが、家の中に通されると、娘さんが二人も居るとは到底思えない静けさと或種の暗さが感じられた。 母親が、「今に娘も戻りますから」と言う言葉もうつろで、娘も一向に帰って来る気配は無かった。 その時私は直感で、ひょっとして娘は家に住んで居ないのじゃないかと感じた。 その日そのJというお嬢さんはは私がおいとまする迄とうとう戻らず、後日或ホテルのレストランで母親から紹介された時も、食事を済ませると、娘は母親と帰らず用事が有るからと言って別の方角に去ってしまい、その時の母親の慌てぶりで私は娘が家に戻っていない事を確信してしまったのだ。

それから少し経ってから本人と会う機会がやって来たのだが、私はその時は既に大体の事情を掌握した積りになっていて、いつか本人の口から聞けばいいやと思っていたので、それの方が却って気楽で良い位の気持でいたので最初からリラックスしていた。 その時のJ子は、話をしてもしっかりした感じで、気の置けない気さくな感じで、話もスムーズに進み、その内彼女の緊張感と言うよりも警戒心も取れて、家との関係を話してくれた。その時私は、逆に私も引け目を感じる事が無くて良かったと思っていた。 次に昼食を一緒に取った時は、その前に食事をした時とは大分違いカジュアルな服装で、少しフラッパーな感じで生活の乱れが見え変だとは思ったが私は大して気にする事も無かった。 その時彼女はその月の末迄には家に戻ると言って、もっと早めるようにと言う私の言葉も頑として拒絶していた。 それから電話で話したりしてる内に段々事情が判って来て、彼女はその頃あるプロダクションの社長と付き合っていて、その人の油壷のマンションに住んでいる事も話してくれた。 それでも私は全然気にならなかった。

その後、丁度私の誕生日が近付き、彼女の家で祝ってくれる事になり、彼女の父親と妹にも会う事が出来た。 彼女の父親は大学でロシア語を専攻していて途中から医学部に転部して医者になった堅物で、娘には短大しか行かせないという固い信念を持ち、女は短大を出てからすぐ結婚すればいいのだとその席でしきりに私に語っていた。 彼女の場合もも四年制の音楽大学を受けて落ちてしまい、当人は浪人したかったのだが、父親の反対に会い、泣く泣く同じ学校の短大に入学した事も判った。 四年制の音大を出てもなかなピアニストの仕事が無い時に、短大を出たピアニストはジャズピアニストになると相場が決まっているのは私でも知っている位の常識でであり、すぐ結婚させたいのだったら、それならそれで何も音大でなくても、それ迄彼女が通っていた東京女学館の短大に進めば良い事であって、これは家に帰らない娘が悪いのではなくて、親のエゴが娘の人生を狂わていると知った私はその時憤りが込み上げて来て、猛然と両親に向って抗議してしまったのである。

それから彼女も一度観念して当時私の住んでいた豪徳寺の家に荷物を送り届けて来た事もあったのだが、本人はそれでも一向に姿を見せなかった。 それから暫くしてJ子から矢張り又気が変ったと連絡が入り、私は届いた荷物をそのまま再び油壷のマンションに送り届ける事になった。 その時に彼女が私に、「私にとっては、只スポンサーが変るだけなのよね」と投げやりに言った言葉に私はカッとなり、「偉そうな事を言って、お前なんか只の妾じゃないか」と罵倒してしまい、彼女をいたく傷付けてしまったのである。

その後Oさんからも詫びの電話が入り、その言い訳がましい態度に私は再び腹を立て、「知っていたのに、俺を騙しておいて、いい加減な事ばかり言うな」と怒鳴ってしまい貴重な友人ともそれ以来疎遠になってしまい、その後に何回か連絡を取った時も彼女は定年が近くなっていて遠くに引っ越してしまっていて会う機会を失なってしまった。 その後ピアニストの彼女は独立し、かつて私が仲介の手配をしたマンションに事務所を開き、六本木で自分のコンサートを開く迄になり、私も連絡を受けて彼女のピアノを聴きに花束を持って出掛けたり、彼女がよくアルバイトでピアノを弾いていた六本木のTというジャズ・バーで酒を飲んだりしたが、その内彼女はニューーヨークに行ってしまい、風の便りにニューヨークで結婚したという話が伝わって来て、バーテンと、「黒い赤ん坊を連れて帰って来るんじゃないか」と冗談を言ったりしていたが、後になって放送関係のお仕事をされている方と結婚したと知り、さすがと思うと同時に悔しい気持も否めなかった。

一度そのバーで彼女に、「あの時はひどい事を言ったわよね」と言われた時は、「あれが俺のいけないところだな」と感じた。 その後彼女が帰国したと耳にした私が、Oさんとたまたま電話で話す機会があり、その時私が、「J子ちゃんは何処かで弾いてないの」と私が言うと、Oさんが機嫌の悪い声で、「弾いてる訳無いじゃない」と怒りを露にしたので、「ああ、あの時の事でOさんの事も俺は傷付けちゃったんだ」と覚った。 最近になってJ子の事もそのバーでたまに見掛けるようになったがすっかり落ち着いて時の流れをしみじみと感じさせられた。

転職を考える

その頃から私は密かに、慣れた流通業に復帰する事を考え始めた。 手始めに、新聞に載っていた、アメリカの映画会社のビデオ販売の会社に応募してみた。 そこの社長と何回か面接したが、埒が開かない、或日本社から若い役員が来日してそれが最終面接になってしまった。 結果は「ノー」である。 理由は、「本社の意向により、今回は国内営業を優先させ、営業担当者を業界の中から探す事に決定した」という事だった。 五月に開始して結論が出たのは八月も終わりに近付いた頃だった。 それから私は、新聞に求人が出てからでは遅いと判断し、履歴書を持って、就職を斡旋する人材会社を数社回ったのである。 それでもなかなか何処にも決まらず、私は段々面接そのものを楽しむ様になって行った。 断られる大抵の理由は、「欲しいのは百貨店出身の人間ではなく、卸売りの人間なのです」という単純明解なものだった。 私の気持とは裏腹に、その頃丁度駅ビルの企画がどんどん忙しくなり、私も会議や、打ち合わせに参加する事が増えて来ていた。 そうこうしている内に十一月の末になり、登録していたある会社から電話が入り、「英国系の企業で人を募集してる、良かったら受けてみないか」と社長が言うので、私は願ってもないとその話に飛びついたのである。 後から考えれば、その会社は社長が変ったばかりであり、大急ぎで誰でもいいから一人年内に欲しかったらしかったが、私にとっては好都合であった。 一度英国から来た役員と面接し、その役員から一寸線が細すぎるという様な意見が出て、あわやお流れという時期もあったが、その時社長が焦っていたのが幸いして入社が決まった。

転職する

その会社は、洋服部門とインテリアの部門と二つあり、全国にショップ展開している会社であり、私は洋服部門を希望したのだが、丁度その時は空きが無いという事で、半年しか経験の無いインテリアを担当する事に決まり、肩書きも企画部ホーム・ファニシング部長に決定した。 私は、「ああ、やっと立ち直れる事が出来た」と喜び、当時一台車を所有していたにも拘わらず、イギリスのオースチンミニを買い、色もブリティシュ・レーシング・グリーンにし、内装もその会社で扱っていたアップ・ホルスタリーの生地でシート・カバーを特注して、後ろの棚には当時集めていたテディーベアーを幾つも乗せ、調子に乗っていた。 その頃オースチンは経営が悪化しつつあり、ミニも私の年式の車を最後に生産を打ち切るという話があり、その話を、面接で私の事を「一寸線が細すぎる」と言った役員が日本に来た時に話すと、その人が、自分は最初に発売された時の一台を持っていて、今も息子が運転していて、色も一緒だと言った時は、この偶然の一致は記念すべきだと思い、もう自分も道を踏み外す事はないと信じたのである。 彼が、「僕のはもっと本格的で、屋根もブリティシュ・ホワイトだ」と自慢げに言った時は、私も自分のミニを余程塗り替えようかと思った位である。

当時は業務拡張が決定したばかりで、商品リストも機械化されて居らず、最初の仕事はデータ・ベース作りだった。 それからは連日の残業で、私も自分のパソコンを持ち込み、張切って仕事をした。 その内管理の担当者も入り、SEの女性も入社して、人数も増えて来たが、中々旨く噛み合わず、大変だった時期もあった。 各店のウィンドウ・ディスプレイを、私の東急百貨店の新入社員時代に内装会社から東急担当で来ていて、その後もハワイで一緒に仕事をし、その時ハワイで私の浮気を上司に告げ口した人間が独立して、デザイン会社を経営していたので、そのKという友人に依頼し、彼の生来の器用さを活かして、コストを抑えてくれたので大助かりだった。 と同時に一度途切れた友好関係が復活出来たので、私にとってはそれだけでも収穫だった。 小売業なので、暮は大晦日迄仕事し、正月は二日から営業を開始する店があるので、手伝いに行くというハードなものだったが、デパートで慣らしていたので苦ではなかった。

晴れて家族の仲間に戻れると思っていた私は、実家の正月に久々に顔を出した。 兄達は再度仕事を変えた弟に批判的で、歓迎されず、長兄から、「又、どうせ辞めるよ」と言われ、私はカッとなり、あわやという場面を作ってしまい、再び家族からそう好かんを喰ってしまったのである。 きっと、新しい職場に移り、張り切って調子に乗っていた私が気に喰わなかったのだろう。 商品リストも完成し、業務も定型化されて来て、社内が落ち着いて来ると、私みたいに激しい性格の人間は兎角人とぶつかり、問題を起こし易い。 その頃オーダー部門を強化する事になり、一人の御婦人が私の部に配属になり、新しい部門を担当する事になった、社長のお知り合いらしく、社長の事をMさん、Mさんと親しい事をことさら強調しようとするのが耳障りで、一度私がその人に、「Mさんじゃ無くて、ちゃんと社長と言って下さい」と言うと、ムッとした表情をして、それ以来ギクシャクしてしまった。 その人が自慢げに、「家の主人も息子の両方とも麻布高校なの」と言ったので、「私も麻布です」と言ったら嫌な顔をされてしまった事もあった。

その会社は当時関西系のスーパーが半分出資していたので、幹部社員の多くは関西の人間だった。 その頃書いた小冊子に、「ノーバウンダリー」と題して、こんな事を書いていたのを見付けた。

「前述したイギリス系の会社に居た頃、その会社が半分関西の会社だった為、社員に関西の人が多く、食事でも共通の味覚はお好み焼きか焼肉位だった覚えがある。  その頃ジョークで、イギリスの事より、「関東と関西の問題を解決せんとな」と言っていたが、先日同じ様な事を感じ、知人に「インタープリフィクチュアも出来ないで何故インターナショナルが出来るか」と怒鳴った事があった。 身近な事だけをとってもこれだけ難しいのだから無理もないが、本質的には利害のかち合う事の無い学際だけでも何とかならないだろうかと思う時がある。」

一度、英国に出張し各国のバイヤーが集まる本社の会議に出席した事があり、会議の席上で自分の反対意見を言って、全員から、「WHY」と言われて返答に窮した事があり、その時自分の英語の実力を覚ったのである。 私はその会議がまるで魔女裁判の様に思えた。 その時アテンドして呉れていた日本担当の女性も、私には広い原野を長い杖を片手に羊を追う羊飼いの様に見えていたのである。

同じ項に、

「三十代の頃私は、人間は国境を超え、性別を超え、年令を超えなくてはいけないと、年中お題目のように唱えていたことがある。  これは四十の時就職したある英国系の会社で、本社から二十八歳の女性が日本担当として就任した時にもろくも崩れ去ったが、今でもこの事は重要な事で、努力に値すると思っている。」

と書いてあった。

本来専門でない、インテリアの仕事をこなすのは無理だったのかも知れない。 又、女性ばかりの職場では私の様なお調子者の遊び人は、旨く行っている時は良いが、一度評判を落とすとがたがたになり易いのものでもあった。 或時期から私の周りの人間関係がギクシャクし出した。 私の実力が問われ出したのだとも言えた。 「小人閑居して不善をなす」とは良く言ったものである。  それから暫くして私は社長付きになり、営業企画の計数管理を命じられた。 これは、営業の数字を社長が営業部に提示する数値の表を作成する、言わば閑職であった。  或日私は会社に内緒で、洋品の輸入会社に履歴書を提出し面接を受けた事があり、そこの社長と私の会社の社長が知り合いで、次の日、「お前の会社の柳田という人間が、面接を受けに来たぞ」と電話されてしまった事があった。 私は社長に呼ばれ、優しく、「別の会社を受けるなら、勤務時間中に行って来ていいよ」と言われてしまった。 別の言葉で、お前は要らないと言われてしまったのである。 辞める時社長が一言、「君の人生を大事にしてな」と言ったのが印象的だった。

商品企画から閑職に移された私は、その原因が私の女性問題であり、その頃付き合っていた女性とのトラブルが問題になっていたのではないかと、薄々は判っていたので、逆に誰もそれを口にしないのが耐えられず追い詰められていた。 私はその少し前に会社に居た或女性と仲良くなり、付き合い始めたのだが旨く行かず、取引先の別の女性と二股を掛けていたのである。 その上、その時付き合っていた女性にも私が会社を辞める様に勧めて辞めさせてしまったのだ。 その後、同時進行で付き合っていた取引先の女性と急速に仲が良くなり、父親にも紹介されて、その子の父親が、「旨く行くか一緒に住んで試して見なさいよ」と言うので、「変な事を言うお父さんだな」との、余りにも寛大過ぎるその父親の言葉が暗示している深さにその時は私も気が付かなかったのだ。 その女性は慶応大学の私よりも十七年も後輩で、頭は良く感受性の鋭い女性で、母親が神経症を患っていると後から聞かされて、私が、「ああ、成る程」と思う程神経質で、朝途中迄一緒に電車で行っても、隣の人に少し身体が触れただけで、きっとした目でその人を睨んでしまう程ひどかったのだ。

程なく彼女も会社を辞めてしまい、家に居たのだが、余りに目に余るものがあったので、私が提案して、その頃M社長から読む様に勧められた船井幸雄氏の著書の中に、超越瞑想について書かれた物があり、六本木にあった、マハリシ研究所という所で瞑想教室に二人で参加してみる事にしたのだが、最初の初級クラスは二人で一緒に受けたのだが、彼女は次のコースにも進みたいと言って実家に戻ってしまい、それっきり帰っては来なかったのである。 その時初めて私は瞑想の基礎知識を学び、瞑想の基本が複式呼吸であり、マントラを唱え意識の深いレベルに入って行くという事を知り、結局は、私がアイソメトリック・コントラクションという筋力トレーニングから学んだ腹式呼吸と、カトリックの祈りを唱えている時の効果と同じである事も判って来たのである。 全くの偶然なのだが、私が中学の時に或同級生が私の姓名から一字ずつ取って、その頃流行っていたマンガのヨギ・ベアーと掛けて付けてくれたニック・ネームで、その英国の会社に入社した時に復活していた、「ヨギ」と、ヨガのマスターという意味の「ヨギ」が偶然一致して、それ以来私は、「ヨギ」というニック・ネームの由来を聞かれる度に、その瞑想教室の導師であるマハリシュ・マッヘーシュ・ヨギを思い出していたのである。

風を引いて寝込む

その会社を辞めた直後に私は生れて初めて風邪を引いて寝込んでしまった。 意識が朦朧として、私はその時これは風邪じゃない、宇宙がひっくり返ってしまったに違いないと感じた程であった。 五日間寝たきりになってしまい、そのまま死んでも誰も気付かないのではないかと恐ろしくなってしまった。 恐くなった私は実家に電話を入れ、母に迎えに来て呉れる様に頼んだ。 甥の運転する車で母は迎えに来て呉れた。 後で、以前実家で会って以来付き合いの続いていた、さる著名な俳優の息子さんで、ニューエイジ・サイエンスに興味を持っているKHという友人にその話をすると、「あの時は同じ症状になった人が沢山居た、それは人類の進化する兆候なのです」とライアル・ワトソンの『百一匹目の猿』の話をしてくれた。 その時私が「成る程な」と思う程ひどい症状だったのである。

再度転職する

それでも懲りない私は、前の会社に就職した時にお世話になった人材会社に再度依頼し、今度はイタリア系の皮革製品の会社を紹介して貰った。 今度は営業課長のポストだったが敢えて受けてみた。 前の会社でイギリスに出張出来たので、今度はイタリアだと軽く考えていたのがいけなかった。 フランス人の社長が、女性だけを事務所で使って事足りるという様な小さい会社で、別にフランスのブランドの管理会社も経営していた。 最初の内はその社長も、ルノーが一台余っているから修理して勝手に使って良い、とか その内イタリアに一緒に買い付けに行こうとか、いい話ばかりの様に見えた。 年商八億の小さな会社だったにも拘わらず、その一パーセントの八百万の年収を欲しいと言ってしまったのも失敗だった。

最初はその社長に各売場に案内して貰い順調に行くかの様に見えたが、現実はそんな甘いものでは無かった。 ストック掛かりの若い女の子の使い走りにされそうになり、拒絶した事もあった。 百貨店に出入りする問屋の営業の苦労がその時やっと解った気がした。 それから一月に一度ずつ何度かに分けて、全国に散らばる売場を回って営業する事になった。 東京の百貨店は未だ良かった、古巣の東急百貨店にも挨拶に出向いた。 最初は、売場の人間とも仲良くなれそうな感じでもあった。 中には期待して応援して呉れる人間も居たので、それで気を良くしたのが間違いだった。 その時の私は、見た事の無い前任者が何故辞めたのかすら考えず、前任者が仕事の出来ない男だったと勝手に決め付けていた。

大阪の百貨店では、ヤクザの苦情を受け、組の事務所に電話して、「いじめんといて下さいよ」となだめ、やっと分って貰えたと喜ぶのも束の間、今度は問屋が駄目なら、百貨店に直接ごねればいいやと電話され、担当の課長から怒鳴られ、結局はスタンプ台のインクで汚れた使い古しのセカンドバッグを交換させられ、散々な目に会い、その記憶も生々しい内に、今度は、奈良の百貨店の担当部長から催事用に無償で商品を出せと言われ、帰って社長に報告し断られ板挟みにあったりして、自分が如何に営業に向かないか分った。 全国の店長が東京で一堂に集まる、私にとって始めての店長会議の時は声を掛けて呉れる人間は誰も居なくなっていた。 事務所に帰ってからも、現状を訴える愚痴の電話を友達にする事が多くなった。 或日その事を、「新しく入った柳田は会社の悪口を他の人間に言っている」と、私の電話を聞いていた女性社員から社長に告げ口され、社長に呼び付けられて、そこには居られない事になってしまった。 最後日挨拶に行くと、社長は凄い剣幕で、「二度と会社の悪口を言わないと念書を書け、さもないと二度と外資系では働けなくしてやる」と言った。 仕方なく私は念書を書き、サインをした。

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