自伝

ハワイから戻る

ハワイから戻ってからが大変だった。 空港に到着すると女房の両親は迎えに来ていたが、私の両親は元々息子の送り迎えする様な人間でないし、私の関係の人間は一人も居なかった。 そこには気まずい雰囲気がただよい、私達は挨拶もそこそこで別れた。 後で、女房が私を訪ねて来て、「第三者を立てて話し合いましょう」と言うので、私は、「そんな事をしたら、親戚の前で言いたく無い事迄言わなくちゃならなくなるけど良いのか」と言ったのである。 それ迄の彼女に比べかなり強気な発言で、周囲の人間に色々入れ知恵されたなとその時私が感じたからである。 私達の間には、私の浮気意外に彼女にも色々あり、私はその原因が全て自分にあり、全ては自分の責任であり、彼女の事は一切誰にも話さない様に決めていたので、彼女にもその事を理解させたかったのである。 慰謝料についても、その当時結婚六年間で貯まったお金が六百万程あり、半分以上は財形貯蓄に廻っていて、私としてはそれを崩すのは致命的であると思ったので、私からは二百五十万支払って、それで勘弁して貰いたかったのだが、受入れて貰えず、仕方が無いので、残りは私の親からとれと突っぱねてしまった。 後で聞いた話だが、彼女が嫁入り道具に持って来た電化製品等を私の家族が引き取って、残額を渡したらしい。 その後は以外とスムーズに運び、翌月の初旬には離婚届けの提出も済み私達は正式に離婚してしまった。 その時も私は結婚した時と同じに、中学三年生の時のスキー旅行の時のEのあの言葉を思い出していた。「柳田は絶対女で失敗する」。

自分の住んでいた所は、先にハワイから戻った兄の家族が住んでいたし、仕方が無いので私は裏庭に建っているアパートの一室に収容された。 二月の寒い日だった。湯沸かし器が無いと母に言うと、怒って「ここはハワイじゃない」と言った。たまらないので、荷物を纏めて家を出る事にした。 それから暫く高井戸のアパートで暮し始めた。 その頃別れたた女房も、実家の近くにアパートを借りて暮し始めた。 どう言う訳か自分も引っ越しを手伝った記憶があり、その時ハワイで一緒に仕事をしていた少年院上がりの漬物屋のKが手伝いに来ていた。 それでも、私は未だその時二人が関係がある等と思ってもみなかったのである。 その後少し経ってから、私が別れた女房のアパートを訪ねる機会があり、その時女房が関係を迫って来た時に、マリファナを吸うか私に聞いてきたので、その時はKの奴から貰ったんだなと思った程度で、わざと私が、「そんな物誰に貰ったんだよ」と聞くと、以前ハワイイで住んでいたテラス・ハウスに住んでいた私も仲が良かった、日本人と韓国人のハーフのホステスの名を出して、「J子にハワイに居た時に貰ったのよ」と言ったので、Jが普段はマリファナを吸う様な女ではない事を知っていた私は、「あいつはマリファナを普段は吸わないのに、お前にくれる訳無いだろ」と言ったのでだ。 すると、彼女が急に慌て出したので、何かおかしいと思い、それ以上詮索もせずに、大体私は日本でマリファナを吸っている程暇でも無かったし、マリファナを吸いながらセックスする趣味も無かったので、私は急に白けてしまい帰って来てしまったのである。 その後少ししてから、私はその漬物屋のKの女房から呼び出され、お宅の奥さんと家の主人が浮気していると評判になっていると文句を言われる迄Kと女房が出来ていた事に気付かなかったのだから、「俺も間抜けなもんだな」とその時思ったのを覚えている。 文句を言われた時は、既に離婚届けを出した後だったので、奥さんには「離婚した人間の事は申し訳ないけど、責任は持てない、だからと言って俺が貴女と寝る訳にも行かないし」と断った。 誰かと出来ているのは知っていたが、まさかKだとは気が付かなかった。 そう言えば、自分達が帰る時空港にKが送りに来ていて、涙を流しているのを見て、変な奴だなと思ったが、女房と別れるのが寂しくて泣いていたのだと思った。

学生時代もそうだったが、その時も私のテリトリーで仕返しをしようとし、人間関係を壊してしまうのはどうも彼女の性格らしいと、その時確信したのだ。 その後私が、所沢に住んで居た時も何回か電話で復縁を迫られたが、その度に彼女は酔っぱらっていたので、酔っ払いが嫌いだった私は一度彼女を怒鳴り付けてしまい、それっきり電話も無くなってしまった。 私が沈黙を守り続けたので、母等は真相が知りたかったのか、それとも只の好奇心だったのかは定かでないが、常に鎌を掛けて来たが、その後十年以上私は押し黙っていて、母が事実を知ったのはつい最近の事である。 風の便りに彼女も再婚して子供が出来て幸せに暮していると聞いた時は、私も心の何処かに引っ掛かっていた重荷が取れて少し楽になった。</P>

その後、ハワイに居た時離婚の原因になったMが追い掛けて来て一緒に暮す事にした。 その時のアパートが二人には何とも言えず狭いので、会社から金を借りて所沢にマンションを買い、引っ越した。 その時も、母から三百万円を一月半借りただけで、兄弟から文句が出た。 私は一月後に、結局は後で母が現金で返してくれたが、利子を付けて三百五万の横線小切手を作り、持って行った記憶がある。 Mとは一年一緒に居たが、彼女はある大きな新興宗教に入っていて、私の持っていた十字架は捨ててしまうし、母親が日本に訊ねて来た時、会の支部に、私が信教の自由を与えないと虚偽の訴えを起こし、或日自分が家に帰ると、私がなけなしの金で近所の家具センターで買った炬燵にその親子を含めて五人の人間が入り、宗教論争が始まった。 私はその連中に、「私は仏壇の部屋も与えているし、幼児洗礼のカトリックだから私の年と同じ位の歴史しか無い宗教に転向する事はない」と言って説明した。 最初の内は宗教論争を仕掛けて来た人達も私に歯が立たないと思った途端、親子に鉾先を向けた。 その次の日家に戻ると二人の痕跡は跡形も無くなっていた。

それからが苦労の始まりだった。 これが所謂「群の制裁」と言うものなのか、独身の時は何人の女性と付き合おうが、誰も何も言わないが、一度離婚すると、途端に付き合う女性の数を数え始めるものである。 所沢の生活は大変だった。経費を払うと、可分所得は僅か数万円という生活だった。 ある時、自分のその時所属していた商事部で、御中元の内見会があり、その後場所を提供する店側の担当者と飲みに行き、酔っぱらってしまい、知らない高級な店に迷い込んでしまったい、散財を余儀無くさせられてしまった事がある。 それが元で、折角新調しようと思っていたスーツを断念する事になってしまったのである。 その後、珍しく法事に呼ばれ、袖口の擦り切れたスーツを着て行った私を父が見て、「馬鹿にしてるのか」と怒った事があり、私には「馬鹿にしているのでは無く、買えないのです」と、答えるしか無かったのを今でも覚えている。 それ以来私は、村八分ならぬ村十分になってしまい、家族写真にも入れなくなってしまった。 一度家族写真の話を父にした事があるが、その時父が言ったのは「誘ってもどうせ来ないだろ」という一言だけだった。 私の父母とはいつもこんな風なのである。

その頃の私は、心が荒んでいて、些細な事で激怒し、顔付きは悪くなり最悪の状況にあった。 それ迄如何に自分が柳田という家に守られていたかを痛切に感じさせられた時期でもあった。 誰も私の事を知らない環境に住んだ事も無く、一人の柳田芳秋という人間として行動し、全てを自分の裁量で決め、全てを自分の実力、力量の範囲で納めるという事が、どんなに大変な事を知らなかったのである。 柳田ですと言っても、相手は、「どこの柳田さん」とつれない返事をくれる、それだけで傷付いていたのである。

或日それはとうとう爆発してしまった。 なけなしの貯金をはたいて買った車が欠陥車で、何度ディーラーに掛け合っても、のらりくらりして一向に埒が開かない。 担当者は人が良さそうな人間で、その上の所長が逃げる様に言っているらしく、間に挟まれて困っているのを見ると、可哀相にはなったが、背に腹は変えられない。 業を煮やした私は、その中古車屋の親会社に電話を入れ、総務の担当者から正式な苦情として受理して貰う約束を取り付けてから、再びその中古車屋に電話を入れ、今度は担当者ではなく所長を家に呼び出したのである。 何も知らないその所長は家に来て、案の定、「その年式は皆欠陥車なんですよ」と、如何にもずるそうな顔をして答えたのである。 堪忍袋の緒が切れた私は、本社に電話してある事をふせて、「私は何も同じ年式とは言っていない、その年の車が皆欠陥車なら、もう一年新しいのを持って来るのが当然じゃないか」とその所長に迫ったが、未だ「ハイ」と言わない。 ついに切れた私は「さっき本社に電話して、総務の人に正式な苦情として受理して貰ってあるから、サラリーマン生活を続けたいなら素直に言う事を聞いた方がいいんじゃないか、店に帰ってみれば電話が本社から入っている筈だよ」と、まるでヤクザの様に脅かしてしまったのである。そして次の日に新しい車は届いた。

その時から私は自分をなめて掛かって来る人間に対して猛然と突っかかって行く様になって行った。 コンピューターを買った時もそうだった。 その当時は未だコンピューターが品不足で売り手市場だったので、納期が間に合わない事等ざらにあった。 あるコンピューター会社に行くと、その日に半額を支払う様に言われ、私は「納期が間に合わないかも知れないのに、半額を支払わせて大丈夫なのか」と一応確認し、それでも契約書を突き付けて、半額の支払いを迫る担当者に腹を立て、「お前、手付け倍返していうの知っているか、もし間に合わなかったら大変な事になるぞ」と凄んでしまったのである。 それでもその担当者が大丈夫だと言うので、私は近くの銀行に行きなけなしの五十二万円を支払って帰った。 そのコンピューターは実家の画廊の裏に設置させて貰う約束をしていたので、次の商談は納期の最終日に画廊のサンルームで行われた。 必要無いと知りつつ私は残金を現金でテーブルの上にむき出しで置いて、担当者の到着を待った。 暫くして二人で連れ添ってやって来たその担当者は予想通り、「申し訳ございませんが、間に合いません」と頭を下げた。 その時私は、残金を指差して、「お前らこれを貰いたいだろうが、俺が契約の時何を言ったか覚えてるだろうな、それで、どうしてくれる積りだい」と再び凄んでしまったのである。 そしてその後、当時非常に高かったソフトは皆無償で提供されたのだった。

一時実家に戻る

会社を辞めようと思ったが、マンションのローンが残っているので辞められない。 仕方が無いので、母に事情を話し、実家に詫びを入れ、マンションを売る手配をした。 売れる迄の間実家の裏庭のアパートに住む様にと言われた。  私は身の回りの最低限を用意して、そこに引っ越した。 今でも覚えているが、部屋の隣に入っていた広島から出て来て桜美林大学に通っていたお嬢さんが、私が荷物を運び込んでいるのを見て、「ここの大屋はうるさいから、彼女を連れて来る時は、特に気を付けなよ」と忠告してくれたのである。 後で私がその大屋の息子だと分ると、私が会社から帰って来て前を通るとコーヒーのサービスをしてくれる様になった。 暫くそこに住んだが、その時付き合っていた私の彼女に嫌みを言って、実に嫌な扱いを受けたので、荷物を纏めて所沢に戻ってしまった。 その頃私は既に引っ越し慣れと言うか、ずれと言うか慣れっこになっていた。 自分の事を冗談でジプシー柳田と呼んでいた位である。

その当時母は成城の家を、気が付くといつも改築していた。 画廊のサンルームから始まり、続いて和室の前に差し掛け部分を増築した。 私は、兄弟の中で自分で家賃を負担しているのは私だけで、自分の可分所得がたった数万円しか無い時に、何で贈改築ばかりするのだとクレームを付けた。 或日画廊のサンルームを訪れると、そこに差し掛け部分の模型が置いてあったのを見付け、頭に来て思わず叩き潰してしまった事がある。 それにはさすがの母もまずいと思ったらしく、庭に家を建ててくれると言ったのである。 それから間もなくして、マンションが売れる事になり、私は円満に退社する事が出来た。 そして私は三たび、部屋は毎回違いこそすれ、あの懐かしのアパートに戻る事になった。  母が珍しく掃除をしてくれると言って、わざわざ車を運転して所沢迄来てくれた事がある。 そこ迄は良かった。 会社から帰って見ると、そこにあった女性物のエプロンはずたずたに裂かれ、寝室の枕は二つ並べてあったのが、真中にでんと重ねてあった。 私はその時母の異常性を目の当たりにして、薄気味悪くなった。

会社を辞める

会社を辞めたいと父に言うと、入社する時世話になった親戚の小父さんを説得すれば辞めてもいいと言ったので、私は虎の門にあったその小父の会社に出掛けて行き事情を説明した。 その頃は辞めて美術品のレプリカを扱う会社をしたいと思っていたので、その様に伝えると、「物の時代じゃないと言っても、美術品だって物じゃないか」と機嫌が悪い。 そして、「大体、一箇所で長く続かない奴は駄目だ」と続けた。 私は「十五年も勤めれば、充分じゃないですか」と切り返した。 それでも小父は首を縦に振らなかった。 困った私は、「小父さんの承諾を得ないと帰れないから、ずっとこの事務所に居ますよ」と言った。 根負けした小父は、「勝手にしろ」と言い、最後に、「俺だって未だ元気なんだから、どうなるか見てるからな」と付け加えた。 私は解放された。

結婚式のも出席して下さったM常務にも挨拶をしに行った、一度は、「柳田を辞めさせろ」と社員寮の玄関口で叫んだM常務もその日は、「三十八位が人間は、精神的にも肉体的にも一番充実している時期だから頑張れ」と、励ましてさえくれた。 人事の担当課長は、「色々な職場で色々な業務を経験して、一番良い時にそれを全てかっさらって行くんだな」と言っていた。  東急百貨店に入社した時、母が「お祝に何が欲しい」と私に訊ねたので、私は、「自分が入社したのだから、東急の株は上がるから、株を買って欲しい」と答えた。 その時三百円で一万株買って貰った株が、私が会社を辞めた時丁度千円になっていた。 増資分を含めると一万一千株になってた。 私は、東急の株を持っている義理は無いので、売る事にした。 退職金は十五年しか勤めていないので大した事はなかったが、両方足せば少しの間は何もしなくても暮して行けるとその時踏んだのである。

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