御都合主義国家の終焉

日本のリベラルは何故ファッショに走るか

自分が幾ら正論を吐いても相手がそれを即実践するのを期待するのはエゴであり、エゴは絶対に避けるべきであるというのが筆者の持論であるし、そもそも正論を吐く事すら憚れる昨今である。

今まで何度となく書いてきたし今更悪びれて言い訳に終始する詭弁を弄する日本人に真正面から真面目に対処する方がおかしいくらいの世相であるが今回の西部氏の死をある区切りとして自分なりの考え方を纏めておきたい。

今までも日本の学者は退官しないと本音を言わないとか、日本は遅れているのじゃなくて違っているのだと言い訳に終始して来た学者連中、普遍主義国でも上手く行ってないからと日本を正当化した叔父や日本にも科学はあると一言言って席を立った親父の世代の学者に嫌気がさしていたが、次の世代の渡部昇一、西尾幹二、田中英道そして今回入水された西部邁氏、ブルータスお前もかという感じである。


近代文明(普遍主義)とは、
全能性の追求を目的に、普遍性の追求を手段にした、
科学的思考に基づく、個(一)から全への循環システムである。



普遍主義は日本人にとってある種の鬼門であり、学者は一度はその壁にぶちあたる、所謂近代の超克である。 西部氏も自裁される覚悟をした後去年の暮れにウーマン村本氏にその事を話したそうだ。

筆者はたまたまバブルマネーの恩恵を受けて、10年間は何もしないで日本の特異体質を追求出来たので実にラッキーだったが普通はこうは行かない。 今の日本の学者で筆者みたいに、イタリアルネサンス、柳田國男、近代文明の淵源、普遍主義について研究出来る人間はいないのじゃないか。
筆者が会社を辞めて家に篭って日本の特異体質に想いを巡らせていた時文、渡部昇一氏は知的生活の方法の研究時、西尾幹二氏は個人主義の研究時、田中英道氏はダビンチの研究時、そして今回は西部邁氏、皆一時自分の抱えていた疑問にきっと何か答えを出して頂けると期待した面々である、全て裏切られた、 これで日本の学者を信じろと言う方がおかしい。
最初の頃は普遍主義に傷付いた全共闘の生き残りが、ナショナリズムの権化となり民俗学を駆け込み寺に利用したなどと言っていた、柳田國男は普遍主義に逆らってはいたが傷付いてはなかったとも。
少し前迄は自分は哲学的には普遍主義を採り政治的には大和民族党だと言って憚らなかったし、そこには大きな矛盾がある事も承知していると言って、矛盾を看過して生きてきた。

それを今回の改憲騒ぎで自民党草案が、前文の人類普遍の原理或いは人権条項を削除しようとしてる事を知り、日本は既に自分の居る国でないと判断して、最後の矛盾を取り除く為にオーストラリアの市民権を取り国籍離脱を果たした。

結局日本人は普遍主義を拒絶しているので、統一規範の選択肢が右傾化するか左傾化するかのどちらかしか無い。 自由が無いという意味ではどちらも社会主義である。 結局リベラルがファッショになったのではなくて、名称を変更しただけで中身は同じだって事である、結局選択肢がないと言う意味で一緒なのだ。
加計疑惑での前川氏の会見を見て、個人の尊厳、国民主権という言葉から個の確立の重要性或いは規制に必ずしも反対ではないという言葉からは哲学的にリベラルであり政治的に保守と革新に分かれるという基本理念迄共有出来た事は俺にとって実に意義深いものがあった。

自分はオーストラリアに帰化する事で和魂洋才の捻れから逃れ洋魂洋才の環境で哲学的にもリベラル政治的にもリベラルを標榜出来る様になったと言ってるが、田原総一郎氏でさえ自由主義国は哲学的にリベラルでその下に政治的に保守かリベラルがあるって理解してないから日本人には無理な話なのかも知れない。

田原総一郎氏が高校生に他の国は保守とリベラルの二大政党制なのに、日本は両方ともリベラルだから対案が出せないとか説教垂れてたが、彼は以前も明治維新で西欧では一神教だから現人神にしたとか曖昧にぼかしてたけど、西欧は普遍主義つまり政治的にリベラルの元に保守と革新があると何故言わないのだ。

自由主義諸国では普通哲学的に普遍主義で、政治的に保守と革新に分かれるべきところ、 日本には哲学的にリベラルなんて概念は無い、その上日本では紛らわしい事に革新をリベラルと呼ぶから始末が悪い。 哲学的に保守で政治的にリベラルなんてあり得ない。

日本が聖俗未分離の前近代社会である事、近代文明が西洋文明である事から鑑みて近代文明を構築している普遍主義を避けては通れない。 それを避けて通っているのが日本である、結局日本人は文明化したくないとも言える。 だから、近代文明が普遍主義で構築されていてそれに基づいて憲法も普遍主義で構築されているにも関わらず憲法を守れと言うとリベサヨ扱いになる。

普遍主義(洋魂)は避けては通れないのに避けて通ろうとする、洋魂は和魂で代替出来ないのに無視する。 結局普遍主義を拒絶している事に他ならない。 和魂洋才の捻れから逃れる為には洋魂洋才の環境で帰化するしか無いのである。

かくして、西部氏は入水し、自分は国籍離脱をしたという訳だ。

哲学的にリベラルの概念が欠如し保守だけの日本で政治的にリベラルを標榜する程馬鹿らしい事は無い。 西部氏も亡くなった今、近代の超克を宮台、東、津田、古市に出来るとも思えんし、もう日本人には何も期待出来ない絶望である

御都合主義国家の終焉

以前「彷徨える日本人の魂」というタイトルでこんな事を書いていたのを思い出す。

「ファー・イーストでもなくファー・ウェストでもなく西と東の狭間を恰もイソップの蝙蝠の様に彷徨う日本人。 」

「ヒューマニズムでもなく、ナチュラリズムでもなく、文明と文化、インターナショナルとナショナルの狭間を彷徨い続ける。 人は物と心の間を彷徨い、全と無の間を彷徨い続ける、この何れの対比も物と心の関係なのである。 」

「これは全て独自の宇宙観の欠如から来る。 宇宙対人間の構図を追求する姿勢の欠如は人間の宇宙観(コスモロジー)を狭めてしまう。 」

「つまり、マクロ・コスモスとミクロ・コスモスの関係を明確にする論理が無い為、精神性(善と美)を統御する真(論理)、つまり物と心を繋ぐ論理が欠如するまま文明に流され続けてしまうのである。」

今回日本抜きで南北朝鮮、中国、アメリカの歩み寄りにより遂に日本はイソップの蝙蝠の様に仲間はずれになった、これは聖徳太子以来の御都合主義国家の終焉とも言える。

今回の右傾化騒動で、何故日本人が筆者が25年掛けて括り出したあの近代文明、洋魂洋才の図に興味を示さないのか少し判った様な気がした。

何故なのだろう、それは日本人は近代文明がロジカルに構築されている事すら知らないからだ、西洋人の認識も自分等と同じ程度だと思ってるに違いない。

未開だから理解出来ない、理解出来ないから未開のままなのである。

普遍主義を拒絶して残る統一規範は右傾化か左傾化しか無い、何れにせよそこに自由は無い。 普遍主義を自然の摂理と信じる者にとって日本は住み難い国なのだ、何故か、それは日本には哲学的にリベラルと言う概念が欠如するからである。

当初柳田國男が教義の無い神道の為のバイブル作りを試みた様に、孫としては近代文明の日本語取扱説明書を創ろうと思ったのだが、日本が普遍主義を拒絶し右傾化に舵を切ってしまったので必要がなくなってしまった。

一体自分の70年の人生は何だったって思う、生まれた時から新憲法の元で教育されて科学の進歩と共に育ってまさに自由主義諸国の仲間入りが出来るとこまで来て、ドン底に突き落とされた感じだ、国籍離脱が如何に正しい決断だったか今更ながらに思う。

団塊の世代の自分は幼い時から日本国憲法の下に自由、平等、博愛を信じ、人間は科学の進歩と共に幸福になると信じて育って来たのであり今回の右傾化騒動はこれを根底から否定するものである。

自分の70年の人生も40に始めた日本の特異体質及び近代文明の研究並びに柳田國男の研究も無駄だった事になる。

普遍主義を学ぼうともせず右傾化に逃げる事は日本の終焉を意味する。 少なくとも筆者の70年の人生は全て否定されたも同じである。 図を見て頂けば一目瞭然だが、近代文明は自分が無ければ始まらないのである。

結局自分の欠如する日本人は始まってもいない、大人になっていないと言う事だ。 生まれてすぐ大人になる西洋人、かたや死んでから大人になる日本人、何故か、それは日本人は自分と向き合う事を要求されないからである。

自由より寧ろ秩序を好むと言う点で、日本はイスラム社会と似ている、聖俗一致を唱え普遍主義を拒絶するイスラム社会、かたや聖俗未分離で普遍主義を拒絶する日本、その違いは大きい。

イスラムは大人であり、日本は子供だと言う事だ。

大人になりたくない症候群、ピーターパンシンドローム、自由よろ寧ろ秩序を好む。 マゾにはファッショがお似合い。 猫に小判、豚に真珠、日本人に憲法。

日本人=ネットウヨ=内弁慶=負け惜しみ=言い訳の人生=甘えの構造=天皇の赤子の構図は永遠に続く。
国の方針が普遍主義を拒絶する右傾化だとすると、幾ら普遍主義の仕組みを説いても無駄なわけで、国民が自由、平等、博愛を希求しても無理だと言う事だ。 これで日本も名実共に世間主義人民共和国になったのである。

POWERED BY: International Individualogy Institution


[HOME PAGE] inserted by FC2 system