自伝

東急百貨店に入社する

最初のつまずき

入社してからの最初のつまずきは何と言っても鵠沼社員寮での合宿研修だろう。 それ迄私はクラブ活動もした事が無く、林間学校或、臨海学校或いは日本泳法の合宿以外は、学生村に行った事位しか集団行動をした経験が無く、同じ様な環境で暮していた人間とばかり付き合ていたので、それが初めての社会勉強と同じだったのである。 お調子者の私は、それ迄の研修で、学生気分が抜けず調子にのって騒いでいたので、目を付けられていたのさえ気が付かなかったみたいである。 最初の晩に風呂に入った時、脱衣篭に入れておいた、替えの下着が誰かに盗まれてしまった。 これが初めて、世間の波にもまれて傷付いた経験だった。 次の朝、寮の裏庭で体操した時も、人事の担当課長に、「柳田号令をかけろ」と言われ、そんな事が一番苦手そうな私をつかまえてやらそうとするし、私はその日迄、人の先頭に立って何かした事など一度も無かったのである。当然旨く無い。 私にとっては、それが人生初めて受ける命令であった。 その課長は馬鹿にした様な顔をして、体育会出身の人間を指名した。

翌日、確か大覚寺だったと思うが、鎌倉の禅宗の寺で座禅修行の合宿をする事になっていた。 寺迄ハイキングする事になり、大仏前で集合する予定であった。 その時件の人事担当課長が、私に金を渡して、コースの途中にある名物の饅頭を買って来いと命じたのである。 大した時間も掛からないし、こちらとしては、当然誰かが前で待っていてくれると思った。 買い物を済ませて外に出ると誰も居ない、「何故待っていてくれないのだ」、私は独りで裏の散歩コースを早足で歩き出した。 あの紫陽花寺や銭洗い弁天の前を通っている道だったと思う。 それでも追い付けないし、雨も降り出し、何故かわざと意地悪されている様な気がした。 私はそこで諦めなければ良かったのかも知れないが、大仏に行った事が無かったので、仕方が無いので寺に向う事にした。 後から考えれば、大仏の場所を誰かに訊ねてそこに行けば良かったのかも知れない。 前の晩に下着を盗まれた次の日だった為に、被害妄想になっていたのかも知れない。 私は気を取り直して、先ず盗まれた下着を買おうと思い、衣料品を扱っている店を探し、取り敢えず間に合わせに一枚買った。 それから、寺を探して暫く歩き、寺を見付けたのは良かったが、皆より先に着いてしまったのである。 私は入り口で訳を話し、中に入れて貰い、座敷きで皆が来るのを待った。 少しして皆到着した。それからが大変だった。 座敷きの座卓を囲んで、「タクシーで来たんだろう」とか、「大仏で待っていたんだぞ」とか皆で私を責めまくったのである。 その時庇ってくれたのは、同じ慶応を出た人間一人だけだった。 私は、嫌な会社に入ってしまったなとその時つくずく思った。

寮生活

東急百貨店は当時入社一年間は社員寮で暮すのが義務付けられていた。 寮は、川崎市の鷺沼にあり、自宅から通った方が、余程近かった。 何せ、私が東急を選んだ理由は、自宅から三十分で行ける事、転勤が無い事だったのである。 寮では、二人に一つの部屋を与えられた。 同室は同じ慶応出身の人間だったので少し安心はしたが、それ迄家族以外長期間共同生活をした事が無かったので、戸惑いも隠せなかった。 最初の内は、部屋にステレオを持ち込んだりして、生活環境を少しでも良くしようと、試みたりもした。 寮には、地方から出て来ていた社員で、一年以上居る人間が沢山居た。 食事はまずいし、風呂も毎日入れる訳ではなく、洗濯機も先輩達の使ってない時を見計らって使わなくてはならない。 どれもこれも私にとっては初めての経験で、我が儘に育った自分には到底耐えられる環境では無かった。結局寮では一度も洗濯しなかった。 一度、私が風呂場の流しで手鼻をかんだと言って、同期の一人から責め立てられた事があり、神経質な野郎だなと思ったりした。 その人間は、その時から私を嫌いになったようであり、事ある毎に私には批判的な態度を取っていた。 今から思えば、それもその筈である。私は女と車で、極寮に近い東名川崎の出口の傍にあったモーテルに行き、その足で寮に帰ったりしていて、勝手気侭な生活をしていたのである。

その内私は寮に帰らなくなっていった。 会社が引けると、先ず自宅に帰り、食事を済ませ、風呂に入ってから、パジャマに着替え、その儘車で寮迄行き、朝早く起きて、再び車で自宅に戻って出勤すと言う様な日が暫く続いた。 母に寮迄送って貰った事もあった。 一度母に送って貰った時、東名の出口で、ハイヤーに追突してしまい、パジャマの儘外に出なくてはいけないという事があって以来、パジャマでは運転しない様にしている。 幸いそのハイヤーの運転手さんが良い人だったので助かった。  或日、寮監が皆を集めて、何かサークルを作ろうと言い出した。 その人は書道が得意だという事を日頃聞いていたので、すかさず私は「書道クラブは如何でしょう」と言ったのである。 そのアイディアは受けて、即実行に移されたが、言い出しっぺの私は一度も出た事が無かった。 それが私にとって、人生初めて胡麻を擦った経験だった。 或時等は、寮の入り口のホワイト・ボードに寮費未納者として私の名前が載ってしまった事があり、それが運悪くたまたま見回りに来た、M人事部長の眼に止まってしまい、柳田が寮に寄り付かないと言う事を耳に挟んだ部長が、「柳田を辞めさせろ」と入り口で叫んだ と後で誰かが教えて呉れた事もあった。  今から考えれば、その時辞めておけば良かったとも言えるし、この有り様では、どこの会社に入っても同じとも言える。 全て、今から考えればの事であり、当時の私には極当然の事をしていると思っていたのである。

宮仕え

私が最初に配属されたのは、東横店の実用婦人肌着売り場である。 最初は面喰らった。何故かまたしてもやられたなと思った。 小さい頃父から、「買う買う族」と渾名を付けられる位買い物が好きだった私も、買うのと売るのとでは大違いだと言う事をその時嫌と言う程思い知らされた。 しかし、私はそこで売る術を学んだのである。 次は、課内異動で実用婦人セーター・ブラウス売り場に行かされた。 そこで私は、繊維製品の基礎から学ぶ事が出来た。 最初の試練は、フロアー対抗の運動会である。 新入社員が応援団長をさせられるのが、そのフロアーつまり課の習わしになっているそうである。 その頃、会社の雰囲気に少し慣れて来た私は、一生懸命頑張ったのである。 その頃東急百貨店も多店鋪化に備え、中途採用の社員の数を増やし初めていたので、色々な職業を転々として来た連中が、私の周りには沢山居て、それらが皆虐められていた私の味方に着いてくれたのである。 その時頑張れたのは、何と言っても若手社員の応援があったからであり、以来私は下の人間しか大事にしない事に決めた。 今でも懐かしく思い出すのは、私が未だ新入社員で虐められて苦労をしていた頃、徒党を組んで私を助けてくれたあの若手の連中だけである。 様々な虐めにもあった。 或時私はフロアーの人事教育担当に任命され、その時私の上に居た人間には虐め続けられた。 その人は、酒癖が悪く、私を澁谷のオーシャン・バーに連れて行っては、事ある毎に私に絡んだ。 酒が回ると、いつも決まって「学卒だったら、どんな馬鹿だって、マネージャーになれる」と言っていた。 当時私は酒を飲むのに慣れていなかったので、家に帰ってから一人部屋に籠り、泣いていた事もあった。 その後その人は、組合の専従になって張り切り過ぎ、会社の役員に目を付けられて、私がハワイ転勤にから汚名を背負って戻り、商事部に配属になってから、私も一時居た事のあった課の係長になって、更にそこでも旨く行かず、すっかり自身を失い、辞める寸前だった私に、「あの頃は色々虐めて悪かった」と謝ったのである。

始めの内は会社に行くのが嫌で嫌でたまらなくて仕方が無かったが、幸い家が職場のあった澁谷に近く三十分もあれば行けたので助かった。 朝食を済ませてから、その気になる迄家で音楽を聴いて心が落ち着いてから出掛けるのを日課にしていた。 その内英会話クラスで会った店内放送をしていたSKという女の子と付き合い始め、その頃キャセイ・パシフィックのコマーシャルで盛んに流れていた曲が気に入っていて、わざわざキャセイ・パシフィックに電話で問い合わせて曲名を調べ、それがバリーホワイトとラブ・アンリミテッドの『愛のテーマ』だという事が判ると、ドーナツ盤を買って来て、それを彼女に渡し、私が丁度フロアーで商品カバーを畳む作業に入る頃を見計らって掛けて貰い、一人で悦に入っていた事もあった。

酒を飲み始める

私は父親の酒癖の悪さを見て育った為、酒飲みが嫌いだった上、体質的に酒が弱く、入社する迄は殆ど酒を飲んだ事が無かった。 学生時代は、その為に彼女に振られてしまった程である。  当時会社の人間が仕事の後飲みに行ったり、歓送迎会をする場所は、決まって澁谷の裏通りに沢山あった焼き鳥屋だった。 今と違い、酒も安い二級酒だった為、飲み過ぎるといつも大変な目にあった。 かと言って断る訳にも行かず、飲めばいつも「柳田、歌を歌え」と上司や先輩から言われ、断れば絡まれる地獄の毎日だった。 その頃は未だカラオケも無く、当時の課長が歌うのは決まって軍歌で、課長が軍歌を歌えば、必ず下のゴマスリ係長が、自分の下の人間に軍歌を歌わせ散々だった。  その頃は飲まされて家に帰ると先ず便所に籠り、胃と腸の内容物を全て出してからベッドに潜り込むという生活だった。 こつが掴めなかった最初の内は、ベッドの周りに戻してしまい、翌朝掃除するのが大変で、その内少し賢くなって、寝始めは枕と逆の方向にに寝て、大丈夫だと判ってから、通常の位置に戻ったりもしていた。  或時、早慶戦があって、澁谷が慶応大学の学生でごった返していた晩、たまたま私の居たフロアーはいつもの様に裏通りの焼き鳥屋で宴会をしていた。 その時は、私が慶応出という事で皆から飲まされへべれけに酔ってしまった。 澁谷を出たのが十時半だという事だけは覚えていたが、その後の記憶が全く無かった。 朝起きると財布が無い事に気付き、行き掛けに駅の交番に立ち寄り紛失届けを出した。 その際お巡りさんが色々訊ねた後、「澁谷を十時半に出て、何時に家に着いたのですか」と聞いた。私は思わず「それを覚えていればこんな所に来ませんよ」と言ってしまった。会社に着くと、先輩の女子社員が私を呼び止めて、「何々君にお礼を言いなさいよ」と自宅の傍に住んでいた後輩の名前を挙げた。 聞いた処その後輩が、下北沢の駅で吐いて倒れていた私を見付け、自宅迄送ってくれたとの事だった。 その内、敷物カーテン売り場に異動になり、安い二級酒を強制される事も無くなり、助かった。 時が経つと共に慣れて来て、普通の付き合い程度だったら大丈夫になったが、時代も急速に変って行き、その内酒を強制する社員もめっきり減り、皆が酒を楽しんで飲む様になって来たのは驚くべき変化である。

ジキルとハイド

会社に段々慣れて来るに連れ、家ではヤクザと呼ばれる様になって行った。 それ位、デパートの仕事は、がさつな物だったのである。 たまたま私がそういう売り場に居たからかも知れないが、売り場に配属された新入社員に最初に与えられる仕事は通常返品業務である。 これは、問屋に商品を送り返す作業で、商品を検品し、値段と数量を確認して検品印を管理課で貰い、発送す業務である。 管理の人間は機嫌が悪いと意地悪し、新入社員はいつも標的にされたものである。 店外催事等があったりすると、商品の搬入搬出でごった返し、台車の取り合いになったりし、顔が効かないと、何時迄経っても仕事が捗らない事も多い。 そういう時にいつも助けてくれたのが、若手連中である。 中には「柳田さんには偉くなって貰わなくちゃならないんだから、喧嘩は自分がやりますから」とはっきり言って呉れる頼もしい猛者も居た。 或時、私の同期の人間が店側に立って指揮を執っていて、余りに威張るので私が詰め寄り、その人間を貨物搬出口のプラット・フォームに追い詰めるという場面があった。 その時その同期の人間が急に大人しく素直になったので振り返ると、私の後ろに若手が全員で、私を守る様に立っていた事もあった。  かくして私は、売り場では坊々と言って虐められ、家に帰るとヤクザと言って虐められ、どっちつかずの立場に追い込まれたのである。  或日、慶応の先輩でもあり、会社の英会話クラスの先輩でもある人間が私の家に来て、私がたまたま父に、「父上、只今戻りました」と挨拶するのを見て、「お前、会社では、「てめー、この野郎」と言ってい人間が家に帰ると、「父上只今帰りました」かよ」とっからかったので、自分の二重人格的な態度の豹変にその時気付いたのである。 以来私は自分をジキルとハイドと呼んで、その頃から、いつも「どう咲きゃ良いのさこのあたし」と、藤 佳子の『佳子の夢は夜開く』を口ずさむ様になり、群れから離れて行ったのである。

英会話クラス

東急百貨店では、東京オリンピックの時期から、増加しつつあった外国人の顧客に対応する為、英会話のクラスを社員の為に開いていた。 その頃から新入社員を勧誘するのが恒例になっていた様である。 私が入社した年は、それ迄見合せていた学卒の採用を久し振りに開始した為に、学卒の新入社員が私を含めて十六人居た。 担当していた人間は、私よりひと回り上の早稲田を卒業した売り場のマネージャーだった。 クラスは週に一度、外国人の講師を招いて行われていた。 その内、社員の実力が無いので予習が必要だから、自分達だけのクラスを持とうという話が持ち上がり、私が指名されたのである。 社内に貼り紙をして募集したところ予想以上の反響があり、自分一人では賄い切れないので、学習院を出た先輩に半分受持って呉れる様お願いし、自分は若い女性ばかりのクラスを受持った。  その後、クラスはまるで社交クラブの様になってしまい、私は「人事教育公認社交クラブ」と呼んでいた程である。 少し経つとその担当マネージャーの発案で、旅行に行ったりし始め、或時、懇親会を開く目的で参加者から会費を集め始め、或日私の知らない間に、感謝の意を表示する為と称して、マネージャーを含むその頃リーダーをしていた人間全員にに、プレゼントを贈る計画が、勿論純粋な善意の気持からだったのだが持ち上がり、ある女の子が私の所にネクタイピンとカフスボタンのセットを持って来た事があって、聞けばそれ迄集めた会費をそれに当てたという話だったので、私が猛烈に反発して受け取りを拒んだ為に、騒ぎが大きくなってしまった事があった。 そのネクタイピンンもマネージャーが問屋から安く分けて貰ったと聞いて、担当マネージャー迄がその事に絡んでいた事を知り私は増々怒り、近くの喫茶店でメンバーが集まって話し合った時に怒鳴りまくってしまったのである。 その頃から私は英会話クラスから気持が離れて行き、自分の受持っていたクラスを同期の人間に引き継いで貰い、仲間から離脱して行ってしまった。  その担当マネージャーも、私より一歩先にハワイに転勤になり、当時私が、「どうせ三ヶ月もすればホームシックになって、帰って来るよ」と冗談混じりに言っていた程、言動、外観からは想像も出来ない程、デリケートな人だったので、それが現実になってしまったのである。 彼はハワイでノイローゼになり、取引先の女性を自分の部屋に監禁する等、色々な奇行を重ね日本に帰されてしまった。 帰国語の彼は、サングラスとマスクを常に着け、見るからに変になってしまい、回復する迄暫くの間、薬漬けの日々を送ったそうである。

隠居所暮らし

思えば母の傍若無人ぶりが目立って来たのは、祖母が亡くなった後である。 今でも覚えているが、祖母が亡くなる少し前に、私は母が嬉々として、「お祖母様亡くなったわよ」と言いながら私の部屋に入って来る夢を見たのである。 その少し後に、全く同じ事が現実に起ったので私はドキッとした記憶がある。 母は、やっと自分の順番が回って来たと思ったに違いない。 祖母が亡くなったのは、祖父の亡くなった丁度十年後だから、私が入社した次の年の十二月十二日だったと記憶している。 柳田家が相続争いの渦に巻き込まれて行くのはそれからである。 両親は二人共、慣れない弁護士との交渉や家裁での調停で疲れ切って、ヒステリックになり言い合いが絶えなかった。 結局、弁護士同志の話し合いで決着し、祖父の版権は兄弟で分割し、成城の土地だけはかろうじて手元に残ったそうである。

この頃から私は余りに独善的な母の言動に懐疑的になり、私の記憶を辿って過去に遡り頭の中に植え付けられた情報のの誤りを修正する作業に入る事になる。 丁度それは二進法のコンピューターの様な、白と黒の入れ替え作業であり、私が「オセロ・ゲーム」と呼んでいるものである。  或日会社から戻ると、私のベッドが無くなっていた。 母に聞くと、「隠居所に移した」と言う。 祖母が亡くなって以来、祖父の隠居所は空家になっていて、不用心だからというのが理由だった。 私は、「あの暗いオバケの出そうな家に一人で住むのは嫌だ」と抵抗したが、後の祭りである。渋々、私はその隠居所に引っ越しをした。 部屋には未だ「文化勲章」だとか徳川様から祖父に宛てた公式の手紙だとかが、整理されずに残っていて、寂しい感じだったのである。 仕方なく私は、ベッドを以前祖父が応接に使っていた部屋に移し、電話も勝手に移動したりして、環境整備に取り掛かった。 それでも慣れる迄に大分時間が掛かってしまった。 その後は英会話クラスの人間をとっかえひっかえ連れて帰って、皆で雑魚寝し、次の朝一緒に出勤するという事もよくやった。

そんな事をしている内にある事件が起ったのである。 それは、以前祖父の表札が掛かっていた道に面した東屋に、母が私の表札を掛けて呉れた時の事である。 誰かがその表札に朱書きで、私の名前の脇に「成城の鼻つまみ」と書いたのだ。 普段赤いサインペンを持ち歩く人間は、学者か物書き位しか居ないので、誰がやったかは容易に想像が付くが、祖父の事を大事に思っていた人間が、祖父の隠居所跡を大事にしない事に腹を立て、腹いせにした事で、私も多少反省し、それ以来人を連れて帰るのは控えたのである。 その後も、或日私が門の前に立っていた時、一人の年輩の人が前を通り掛かり、私に向って、「ひどいもんですな、荒れ果ててしまって」と敵意を露にして言った事があった。 私が、「どちら様か存じませんが、植木家を入れるのも凄くお金が掛かるんですよ、彼方が払って下さるのじゃ無いのなら、余計な事に口を出さないで下さい」と語気をあらげて言うと、「御遺族の方とは存じませんでした」と名前も名乗らずに逃げる様に立ち去ったのである。  それからの私は、寂しさと、侘びしさが入り交じった気持で、毎晩飲み歩き始めた。 夜中の二時半にバーがはねる迄飲み、それからタクシーで帰り、ベッドの脇に着ているものを脱いで、そのまま布団にもぐり込み、朝起きると、ベッドの脇に前の晩脱いだままになっているスーツを着て会社に出掛けるという生活が暫く続いた。 その頃は若かったし、会社でも大した仕事をさせられて居なかったので平気だった。 それでも六時半には起きて、朝食を作っていた。 眠くて売り場に立っているのが辛い時は、店の前にある薬屋で栄養ドリンクを買って飲んだ。 その内、売り場で如何にも商品整理をしている振りをしながら居眠りする術も身に付けた。 その当時は未だ飲みしろも安く、六本木で飲んで深夜タクシーで帰っても、一万円でお釣が来る時代だったが、安月給取りには相当きつかった。 その頃既に仲間と飲むのは止め、先輩に紹介された乃木坂のバーで良く飲んだ。 丁度関西系の店が次々に東京に進出して来た頃である。 私はそこのバーのママと交渉して飲んでも飲まなくても月に三万円ボーナス時に七万円支払うという約束を取り付け、都合五十万円を自分の年収からその店に落とす覚悟を決めたのである。そのアイディアも暫くしてママが代替わりし、つけを払えと売り場に電話して来てポシャった。  その頃東急百貨店の定休日は木曜日であり、私は仲の良い人間だけを集めて、「木曜会」という会を作ろうというアイディアを出した事がある。 デパート勤めの人間は土日も仕事なので、兎角学生時代の友人達と休みが合わず疎遠になって行く傾向があり、職場結婚が多いのもそのせいである。 取り敢えず会報を作ろうと、祖父の元書斎にしていた場所で、せっせと原稿を作成していた事もあったが、結局不発に終わってしまった。 すぐ会報を作りたがる癖とか、何々会だとか名称を考えるのが好きなのはその頃から変って居らず、どれもこれも実現した試しが無いというのも同じである。 それはさておき、祖父が亡くなったその場所で寝起きし、祖父が『海上の道』を纏めた部屋で、「木曜会」の事を考えたりしていた自分が、その頃は、祖父が「民俗学研究所」を開設する前に主催していた郷土研究の会が、「木曜会」だった事すら知らなかったのだから面白い。

屋根裏部屋の頃

祖父の隠居所での一人暮らしがやっと慣れて来た頃、又、私が会社に行っている間に 私の居場所は変っていた。

母が、私の住んでいた祖父の隠居所を、近所で麻雀荘を経営して人に貸す事に突然決めたからである。

私が今回移された部屋はは、以前住んでいた所ではなくて、現在飯田市に移築されている、喜談書屋とかつて呼ばれていた、祖父が民俗学研究所を開いていた家の、ピアノの部屋と呼ばれていた部屋である。

その家は、昔の洋館で二階は全て屋根裏部屋の様になっていた。 私に与えられた部屋は、以前祖母のピアノが置いてあった部屋で、北に面していた。

それ迄独り住まいで自由を謳歌していた私は再び両親と一緒の窮屈な生活を再び、それも突然余儀無くされてしまった。

私の父は神経質で、戸締まり火の元には非常に気を使う人間であるので、彼は自分が寝る時間に家に一人でも居ない人間がいる事自体が耐えられない、そういう人間なのである。 従って彼の寝る時間が、その家の門限であり、それは以前住んでいた家の時から変っていなかった。 かといって、合い鍵を作って呉れる様な親でもなかったのである。

学生時代はまだしも、勤め始めてからは大変だった。

以前住んでいた家の時は、酔って帰って、鍵が締まっていると、私はいつも庭の杏の木から屋根を伝って部屋に入っていた。

その前に一度、自分の部屋に近い道路側の木に登って家に入った時、朝起きた父に、「俺がちゃんと戸締まりして鍵を閉めたのに入れる筈がない、どこからどうやって入ったのか」と訊ねられたので、「前の木に登って屋根伝いに入った」と説明すると、父がその時悔しそうに、「泥棒が見ていたらどうする」と怒鳴ったので、それからは、庭の側から入る事にしていたのである。

雨が降っていたりすると最悪であり、折角部屋の外迄辿り着いても、又樋の縁迄滑降してしまう事もあった。

その頃の私達子供は、酔って帰った時にベルを鳴らす事さえ出来ない程苛つく父であるという事が、自然に身に着いていたのである。

この頃が、私も社会に出て給料も増えて来ていたし、親の生活のペースに合わなくなっていて、お互いの関係もギクシャクし、独立する丁度良い時期だった思われる。 祖母が亡くなって父がやっと親離れし、時期を同じくして末っ子が親離れする時期を迎えるという、世にも奇妙な親子関係である。

この頃から私も真面目に独立する事を考え始めていた。 母も早く追い出したがっていたに違いない。

何があったかは知らないが、この頃の母は心此処に在らずという感じで、私が会社に行く前、朝食に紅茶を入れて飲んでも、砂糖壷に味の素が入っていて大変な目にあったり、姉から母に対する批判的な電話を貰ったり色々あった時期である。

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